JOJO長編

□1,真昼の逃走劇
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初夏のとある日___。



薬品の匂いの染み付いた白い床にカツン、カツン、とヒールの音が響いてくる。勿論これは足音であって少し早めのその音は居場所を示すように廊下中に響いてはまたこだまする。
廊下をすれ違う白衣の人にも、ナースシューズを履いて書類にボールペン一つで没頭する看護婦にも、その音は聞こえていた。誰一人としてそれを止めるものはいない。もはやそんなヒール音などは束の間のBGMと化している。
しかしある病室の前まで来ると重なっていたヒール音は止む。
女は持っていたカードキーを出入り口に設けられた機械に挿入する。赤いランプは青に光って扉は開いた。
女が入る。堂々たるその様子を珍しげに見るものは誰もいない。白衣も、ナースも、他の患者でさえ。
何故なら見飽きるほどにやってきたことだから。
入った個室の中もこれまた廊下と変わらず白いものばかりだった。不自然に清潔さを気取った白色を女はあまり好いてはいなかった。不快に思わないと言えばベットにある黒髪の色と窓の白いカーテンの向こうに広がる青空くらいか。

「おはよう シト」

ベットの空いたスペースに腰を下ろすとずっと片手に持っていた細い花束をシトと呼んだ彼女に向けた。
「おはよう アト姉さん」
と言葉が返ってくることも無く......瞼は閉じたままだった。
とくに気にした様子も見せず花束を解くと、ベットの横に設けられている大した機能性も望めなさそうな質素なテーブルの花瓶に花を一本ずつ刺して飾った。
解いてクシャクシャになったリボンと同じくクシャクシャになったプラスチックは更に丸めてベットを挟んだ床のゴミ箱へ投げ入れる。綺麗な軌道を描いてゴミ箱に吸い込まれて行った。最近は外すことの方が少なくなってきた気がする。最初の頃は何回トライしても惜しいところで入らなかったものだが。我ながらナイスなコントロールと思う。
しかしそんなことに喜ぶのを飽く程、時は経ってしまった。
こんなのは何度とやってきたことであるからだ。
「もう10年が経つ......アンタが眠り姫になってから」
「......。」
「そろそろ起きてもいいんじゃない......?」
「......。」
「ってこんなこと言っても無駄か」
「......。」
「でも、ずっと待ってる人はいる。シトのこと......ずっと10年間。1人じゃない、大勢」
「......。」
「......。」
明るく振舞おうとも話題を振ろうとも、閉じた瞼は動かなかった。一方的な会話だ。
「ちょっとぐらい換気しないのかしら?」
沈黙に耐え切れず逃げるように窓際に立つと窓を勢いよく開いて外の空気を中に招く。
左右に開いたカーテンがブワリと大きくなびいた。
外から吹く風と一緒に近くを走っているのだろう車のエンジン音も聞こえてきた。これで少しは居心地の悪いとここの上ない静けさも晴れよう。
「......。」
風に前髪をさらわれて眠る彼女の呼吸音は、こんなに近くにいるのにも関わらず、酷く小さく浅い。

___10年前から彼女は何も変わっちゃいない。

1991年2月3日未明。彼女_シトはナイル川で発見、保護された。
発見当時は意識は無く、衰弱しており生きているのか怪しいものだったが処置に当たった医療チームのおかげか安定した状態まで治療は進んだ。
しかし彼女は意識を取り戻さなかった。
発見当時から、まるで吸血鬼みたく死んだように眠っているのだ。
原因は不明。さすがにそこまでは医療チームの皆もお手上げだった。いろいろと調査はしてみたけれど、結局は分からなかった。夢遊病ではないかと騒ぐ者もいたけれど確証がない中、真に受ける奴もいなかった。
それからというもの、目を覚ますこともなく、
10年間、彼女はこんこんと眠り続けている。

「寝坊ってレベルじゃないよまったく......」
これ見よがしにため息を吐くアトラス。その顔には困ったようなまたは諦めたような寂しさが隠せていなかった。
「また来るから」
未だ反応を示さないままのシトの黒髪を一撫ですると、彼女はまたヒールの音を響かせながら塗りたくられたような白の病室を後にした。病室を出る頃には元の尊大な態度をその身に纏って。
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