□ブルームーン
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鎮目町のある通りで、今日も営業していたバーHomraの明かりは、開店時のそれとは正反対に小さなものとなっていた。

閉店後の店内には、年の近い男女が一組、カウンター席に隣り合って座っている。


このバーのオーナーである男の名は、草薙出雲という。

彼は自身の手のひらで小さく揺らしていた、淡い紫色のカクテルが入ったワイングラスを、音もたてずにカウンターに置いた。

隣の女と目が合う。
女は、大人びた容姿相応に美しい微笑を浮かべる。
出雲は刹那、彼女の手の握るマグカップに視線を移し、微苦笑した。


「…何よ?」

「あぁ、いや。アンバランスやなぁ思て」


女は名を、なまえという。
出雲と同じ年齢の、美しいひとだ。


彼女は出雲の発言をうけ、ほんの少し、眉を寄せた。


「私がココアを飲んじゃ可笑しい?」

「そうやのぉて。ただな、えらい美人なオネエサンには、澄んだ色したカクテルのが似合うと思うただけや」

「悪かったわね、中身はオコサマで」


こくり、なまえがカップの中身を嚥下する音が聞こえる。

少々機嫌を損ねてしまったらしい。
出雲は、そっと彼女の髪に手を添えた。


栗色の少し赤みがかった髪は、染色しているにも関わらず、するすると指通りがいい。

それは、なまえが毎日欠かさず手入れをしているからだということを、出雲は知っている。

昔、彼女が、出雲の髪はきれいだと呟いたことがある。
けれど出雲から見たら、なまえのそれの方が何倍も何十倍もきれいだと思うのだ。


出雲はその指先で、なまえの髪をつまんだり、指に巻き付けたり、軽く引いたりして弄んだ。
きれいな髪だ。

なまえの髪と同色の瞳が、出雲を捕らえた。


「子供扱いしないで」

「してへんよ」

「さっきからずっと、してるじゃない」

「違う、俺はただ、勿体無いなぁ思うただけや」

「勿体無い?」


訝しげに丸められた瞳は、彼女のからだのなかでどこよりも幼さを残している。

大人の色香と、子供の稚拙さを兼ね備えたなまえは、時々ちぐはぐに見える。少しの違和感を他人に与える。


なまえを深く知り、また、客観的に傍観した上で、出雲がなまえに贈りたいと思うカクテルは、ずいぶん前から決まっていた。


「なまえちゃんがすきなのがココアやなく、カクテルやったら、俺がとびっきりのを作ったるのに…」


ぱちぱちと、長い睫毛に縁取られたつり目がしばたかれる。

理解が追い付かないという色をはっきり灯すなまえの目尻に、出雲は髪を弄っていた指先を移動させた。


深く、明るく、それでいて赤みを帯びたその双眸。

この瞳とも髪とも異なる色だけれど、あのカクテルがいいと、そう思った。


目尻を撫でる。素肌の感触が親指に伝わった。温かい。


作って、と、なまえの唇が言葉を紡いだ。


「何を?」

「その、カクテル。飲んでみたい」


つり目の目尻がほんの少し下がった。


「ええけど、飲めるん?なまえちゃん、いつもココアやん」


つり目の瞳が伏せられ、頬がわずかに膨らむ。
また機嫌が斜めに傾いてしまった。

彼女が下戸ではないのは知っている。

出雲はその反応に子供やなぁ、と笑って、カウンターの椅子から立ち上がる。

カウンター内から、いつも思い浮かべていた材料を引き出した。

透き通ったそれらをシェイカーに入れ、細心の注意を払ってシェイカーを振る。

なまえはじっと、その様子を眺めているだけだった。


出雲はシェイカーを振るのを止めた。


「どうぞ、マドモアゼル」

「ありがとう」


なまえのまえに置かれたカクテルは、海を彷彿とさせるような色で、グラス内で凪いでいた。


「何て言うなまえのカクテル?海みたいにきれい」

「ブルームーンいうんや」

「…ブルームーン…」


なまえは口をつぐんだ。

ブルームーン。その有名なカクテルは。


一向にそのカクテルを口にしないなまえに、出雲が声をかけた。

唇を噛み締めたなまえが、顔を上げ、呟くように言った。


「…ブルームーンの意味、覚えてて出したの?」

「まぁな。これでも一応バーテンやし」

「………」

「…どないした?」

「ブルームーンの意味…『お断り』って…聞いたわ。…私の存在がってこと?」


彼女の唇が戦慄いでいるのを見過ごすほど、出雲はなまえに無頓着なわけではなかった。


そこではじめて、しまった、と感じた。

言葉が足りなかった。完全に彼女を誤解させてしまっている。

そもそも、彼女にブルームーンの意味を教えたのも自分ではなかったか。


「あぁ…あぁ、泣かんといて。誤解や、誤解やねんて」

「何が」

「きっとなまえちゃんは、俺と正反対のこと考えとる。よく聞いてや」

「正反対…?」

「せや」


こくり、頷いて見せると、なまえの片方の瞳から溢れた、大粒の涙が頬を伝った。


「この、ブルームーンに使われるすみれ色のリキュールは、パルフェタムール、フランス語で…『完全な愛』。んで、これを使ったブルームーンにはな、『めったに起こらない特別で素晴らしい出来事に遭遇する』そして、『幸せな瞬間』っちゅー意味が込められてんねや」

「…しあわせ、な、瞬間…」


ぽたり、頬を伝った涙が、カウンターに染みを作る。

出雲は腕を伸ばし、先刻したのと同じように、彼女の目尻に触れた。
だがそれは瞳を覗き込むためではなく、今度はなまえの涙を拭うための指先だ。


「…な?意味、正反対やろ?」

「うん…」


飲み終えて、ずいぶん時間が経ち、カップの底にこびりついた甘いココアの跡は、きっとぬるま湯でなくては洗えないだろう。

飲み口の一点についたルージュも強敵だと思いながら、出雲は身を屈め、なまえの瞼に口付けた。
 

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