ai no kanzashi

□夏風邪
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すうと、開け放した窓から風が入り込み、ネジはすらすらと滞りなく動かしていた筆を止める。
随分集中していたのだろう、窓を見遣ると、久しく顔を上げていなかった所為か、肩や首の筋が痛んだ。
後ろに纏めた、厚い髪の束の下に、紙を支えていた方の手を差し入れ、凝り固まった首を解す。
今は八月の、夏の盛り。
此方も盛りである、少々暑苦しい蝉の声を聞きながら、ネジは今時分の酷暑など、微塵も感じさせない涼やかな顔で、眉一つ顰めずに黙々と筆を動かしていた。
堅苦しい文章を書き綴っていたが、それでも襖を閉めずに、通気を良くしていたお陰で、部屋には涼しい風が通った。

ネジの向かう、文机の上には、ぎっしりと文字の詰め込まれた報告書が、既に八枚分あった。
黒々と其処を埋める、少々右肩上がりで癖のあるその乱舞に、くらりと眩暈を覚え、ネジは筆を置き、疲労の溜まった目元を掌で覆う。
取り分け、鍛錬や瞑想以外に、熱中して取り組めるものなど持っていなかった、余りに無趣味というのも、良くないのかもしれない。
今日のような、呼び出しの掛からない非番は、何もない自宅にいても、時間を持て余してしまう。
その反動か、何かやることがあれば、このように時間を忘れ集中してしまう。
ゆっくりと眼を開けると、壁に掛かる時計は正午を指していた。
早朝の鍛練終わりと共に、自室に籠っていたので、優に五時間は机に向かっていたことになる。
それは、首も痛い筈だ。
自らの、何の面白味もない休日の潰し方に、深く息をつき、休憩をしようと、漸く考え付いたネジは台所に向かった。

蛇口を捻ると、清涼感溢れる水音が、シンクに心地良く響く。
コップにそれを入れ、口に流し込むと、一つ二つ、空咳をする。
掃除などは、していたつもりだが、大体滅多に使わない部屋なので、埃を吸ってしまったのだろうか。
水の通った後の、潤した喉が、また直ぐに乾き、ネジはコップに残っているものを飲み乾した。

暫く、其処に立ったまま、窓から入る蝉の声を、何とはなしに聞いた。
時々風が入り、ふわりと肌を撫でていく。
しかし、流石に八月ともなると、黙って立っているだけでも、じっとりと汗の滲む感覚が皮膚の奥からする。
廊下から風が吹き抜ける自室と違い、日の射す台所は蒸し蒸しとしていた。
休むと言っても、休憩の仕方も、分からない。
任務後の疲れを、取ると言えば、風呂に浸かるか寝るかだが、今は然してそうしたいとも思わない。
のんびりと椅子にでも座っていたら、いつの間にか一日が終わっていたりしないだろうか。
そう思ってしまうくらいに、時間の使い方が上手くない。
昼時なので、することがないのだったら昼食でも作れば良いものの、別段腹も空いておらず、今日は特にやる気が起きない。
片隅の冷蔵庫を、ちらと見遣ると、ネジは蒸した台所を後にした。



「37度……」

いつもと違い、力の籠もらぬ声で、手元の目盛りを読み上げる。
若しかしてと、訝ってみれば、ああ道理でなと、納得出来る結果であった。
正確には、七度を超え、その中程まで伸びていた。
しかしその先は、疲れた目元で読む気もなく、ネジは用を終えた水銀を振る。

「……風邪か」

ここまでくると、単純に暑さの為の、体温上昇ではないだろう。
微熱を覚った為か、体中が急に怠くなる。
リビングの椅子に座すネジは、テーブルに肘を付くと、気怠げにこめかみを押さえる。
風邪など、殆ど引いた経験はなかったが、別に、我慢出来ない倦怠感ではない。
けれども些かの不調を、我慢してまで、他に有意義に休日を過ごせるような術も、なかった。
珍しく、エリート意識でガチガチに固められた頑強なプライドを、自ら折ってしまうような判断を、ネジはした。
少し、寝るかと、椅子から立ち上がり、何とその足で素直に寝室へと向かう。
それ程、本格的に暑さにやられ、疲れていたのかも、しれない。



寝床の用意をすると、寝間着には着替えず、その姿のまま横になった。
少ししたら、起きるつもりだった。
布団に入り、空咳を出すと、やがてネジの意識は深く落ちていった。







それからどのくらい、経ったのだろうか。
額に何かが触れる感覚がし、ゆっくりと意識が浮上していく。
何だろうか。
柔らかくひんやりとしたものが、自分の額を包んでいる。
其処から何だか知ったような、清らかな石鹸の匂いがした。
日常の生活で、時折ふわりと、漂ってくるそれを、ネジは知っていた。
ああ、いつもどこかで、感じたことのある、優しい香りだ。
暫くし、額に乗った柔らかなものが、離れた。
その行き先が、気になって、ネジは薄らと目を開けた。

寝起きの視界の中に、少女が一人、映った。
傍らで膝を折って、水を張った洗面器をチャプリと揺らす、その姿に、誰にも気付かれずに、静かに息を呑んだ。
……ヒナタ、様。
浮かんだその名を、唇が途中まで辿っていき、声は漏らさぬように辛うじて抑えた。
西側に傾いた陽光が、彼女の方から射し込み、此方からは逆光になっていたが、間違いはない。
今となっては、親しくすることのなくなった、一つ下の従妹。
短く切り揃えた髪を、僅かに揺らして、水に浸した手拭いを絞っている。
どうして、彼女が、此処に――?
ぼんやりと思っていると、同時にその白眼が此方を振り向き、ネジは反射的に目を瞑ってしまった。

「……」

元通りに、“眠っていること”になっているネジを、じいと、注視する視線を感じる。
何故、瞑ってしまったのか、意味の分からぬ行いを後悔してしまうが、もう今更遅くて、ネジはヒナタが怪しまないよう、わざと規則的な“寝息”を立てた。
少しの間、身動きせずネジを見つめるヒナタは、やがて視線を戻し、ピチャリと濡れた手拭いを絞り出す。
ネジがほっとしたのも、束の間、また彼女の意識が、此方に向けられた。
目を瞑っていても、気配が動くのが、分かる。
極めて自然を装うも、ほんの少しだけ、ネジの体が強張った。
近付いた気配は、自分の額に触れた。

「—――」

濡れた手拭いで、丁寧に額の汗を拭き取られる。
やんわりと、軽く押し付けるだけの、彼女らしい淑やかな挙止に、詰めた息を吐き出し、ネジは体の力を抜く。
彼女の手元が、念入りに髪の生え際を辿り、その柔らかな感触が、眠りに落ちる程、心地良かった。
いつまでも冷えた布の感覚に、小忠実に新しい面を出して拭く、ヒナタの細やかな気遣いが知れる。
額を下り、顔周りを押さえた布は、首元まで下りた後、そっと離れた。

ピチャリ…と音がし、彼女がまた、手拭いを水で洗っている。
汗を拭かれた肌に、微風が当たり、爽快とする。
廊下の風通しを良くしている為、部屋は外の熱気が籠もらず、涼しい。
まだ幾らか火照っている、ネジの体は、熱が下がり切っていなかった。
それでももう少し休んでいれば、明日には治るだろう、大分楽になった。
結局、眠るだけの休日となってしまったが…偶には良いだろう。
体を鍛えるだけはなく、このように休養することも、時には必要かもしれない。特に自分には。
皮肉めいた笑いが、密かに込み上げる中、傍らの気配が、静かになった。

洗面器を、片付け終えたのか、物音がしなくなった。
ネジの汗を拭ってやり、用を終えた筈のヒナタは、ネジの傍でじっとしている。
そう言えば、何か用があって、やって来たのだろうか。
頭に浮かんだそれは、直ぐにネジ自ら打ち消す。
用など、ある筈がないのだから。
――この自分に。
その原因を作ったのは、他でもない自分なのだから…と、ネジは普段から、何かと彼女に辛く当たる自身の言動を振り返る。
彼女が好き好んで、分家の自分の住まいに、ネジに会いに来るなど、非現実性に満ち満ちている。
だから、これはきっと、宗主からの使いなのだと、自然と思い至った。
何か言伝を頼まれて、恐る恐ると従兄の家へ、足を運んで来たのだ。
それなら直ぐに目を開けて、聞いてやれば良いものの、然もたった今目覚めた風に“演技”をするのも、馬鹿馬鹿しい。
というか、戸惑いを感じていた。
恐らく、彼女以上に。

普段、自分の方に寄せ付けない彼女が、呼吸が聞こえる程近くで、座している。
幸い、かどうか、此方は目を閉じているので、会話には事欠かない。
それでもしんと静まった空間に、距離を置いた相手と二人きりでいるのは、それなりに気まずい。
ヒナタは此方が寝入っていると思っているので、その威圧感も、普段程は感じていないのだろうが。
だから、熱のあるネジの側に、こうして留まっているのだろう。

ヒナタは中々ネジを起こさなかった。
用がある筈なのに、躊躇っているのか、それとも抑もそうする気がないのか――ネジは彼女に分からない程度に、薄目を開け、その様子を窺う。
細くした視界の中で、正座をした彼女の足が見えた。
揃えた膝の上に、両手を重ねて置き、ヒナタは静かにネジを見つめていた。
顔までは、見えないが、そんな様子だ。
しかし身動ぎ一つしていないと、思っていた彼女は、時々片手を彷徨わせていた。
音もさせず、ネジの元へと手を伸ばし掛け、躊躇っては引っ込ませ、また膝に戻す。
一体、何がしたいのだ……?
意図の分からぬ行動に、疑問を浮かべていると、決心したようなヒナタの手が、遂にネジまで伸びてきた。

「――」

思わず目を瞑ると、ヒナタの伸ばした手が、そっと、腹の上に置かれたネジの手に、触れる。
ふっくらとした、柔らかな掌が、少年らしく骨張った手を、ゆっくりと撫でていく。
指一本も、動かさぬよう、擽ったい感触に、ネジは只管耐えた。
きっと、動かしたら、“行って”しまう。
地面に降り立った小鳥が、枯葉を踏む人の足音に、飛び立ってしまうように。
この気弱な従妹が、ネジを見るのは、ほんの一瞬。
目が合えば、直ぐに俯いてしまうのが、ヒナタの常だった。
だから、何となく、この瞬間を手放したくないと、思ってしまう。
いつもは怖気づいて、逃げ腰でいる彼女が――ヒナタの方から触れている。
恐る恐ると、そして慈愛の籠もった温かさで、ネジの力の抜け、くたりとした手を包み込む。

ああ、彼女が気遣っている。
唐突にネジは、ヒナタの撫でてくる手の“意図”を覚った。
――にいさん……だいじょうぶ……? と。
自分を心配そうに覗き込む彼女の、心の声が、触れた手から伝わってくる。
目を閉じていても、分かる。
ぐったりと枕に頭を沈ませる、ネジが気掛かりで、中々、ヒナタは帰れないでいるのだ。


愈々、この強情な“狸寝入り”も、解いた方が良いのかもしれない。
一言、目を開けて、大丈夫だと言ってやれば、ヒナタも安堵するだろう。
しかし、反対に…ネジが目覚めれば、恐れるかもしれない、とネジは“恐れる”。
今やんわりと、こうして自分の手を握ってくれているのは、ネジが、“寝入っている”と見えるから。
普段は近付けない人に、臆病な彼女が、こんなにも優しさを示すこと。
急速に、今まで自分の取ってきた、慎みのない言動を、ネジは恥じた。
面と向かって、嫡子としての無能さを出して罵倒することもあれば、遠慮がちに声を掛けてくる彼女を、無視したこともある。
そんな非情な従兄にさえ、ヒナタは心遣いを忘れない。
どんなに冷たくされても、あしらわれても、彼女にとっては、たった一人しかいない、大切な従兄なのだ――。


彼女の全てを、許したわけではない。
それでもこれ以上意地を張るのは、年長者としてどうなのかと、格式ある日向に生まれた誇りをネジは重んじた。

目は、開けなかった。
彼女が恐れるかもしれないから。
今更そうするのも、馬鹿馬鹿しいし、面と向かって告げるのは、ネジの性にはどうしても合わない。

指先に、ほんの少しだけ、力を入れた。
僅かばかり、柔らかなヒナタの手を、握り返した。
心配してくれて、ありがとう……と、決して強情な口からは告げられぬ、想いを乗せて。

届かなくても、良いのだ。
寝惚けて握り返したのだと、彼女は思っていれば良い。
そう、高望みしないでいるネジの、少しばかり“素直”になった手を、ヒナタが握り締めてきた。

組手などの、正当な理由がなければ、互いに、決して触れ合えない“手”だった。
その柔らかさだった。
組手の時でさえ、ヒナタを激しく罵倒する、ネジの指先は鋭い刃を持つ。
しかし今は、至極遠慮がちに、また確かにヒナタを握り返す。
込められた指先の力に、彼女は直ぐに反応を示して、優しく指を絡めてくる。
それが、ネジに付き添う自分への、これ以上ない見返りだと、言わんばかりに、切なく力が籠もっていく。
普段は優しさなど、皆無の従兄だから。
意識がないこんな時にしか、ネジはヒナタに優しくない。
こうして手を繋ぐなど、一片の悲しみもなく触れたなど、ああ、いつ以来だろうか。


肩を震わせるヒナタの裏で、その全てが意思を持っていること。
決して、寝惚けているわけでは、ないということ。
この冷酷な従兄にも、従妹を可愛がる優しさを、人並みに持ち合わせていること。
意外と勘の良いヒナタに、絶対に、気付かれぬように、ネジは穏やかな寝息を立て続けた。
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