ai no kanzashi

□祈雨
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どうか雨雲よ、去ってしまわないで。
このまま……止まずに私達を、ここに閉じ込めてくださいな。







「ヒナタ様」

 普段から平静で凛と響く声は、この時は少しばかり目立った。
 本は(せわ)しい日常を忘れさせて、自らを自由な精神世界へと(いざな)ってくれる。
 里に古くからある図書処。文学作品から実用書まで豊富に取り揃えていて、取り分け読書家であらずとも楽しんで過ごせるが、特にそんな専門家が(こぞ)って通い、思い思いの収蔵品に触れている。
 本日も己に相応しいと思える一冊を各々選んだ。熟読玩味していた頁から顔を上げて、怪訝そうに此方を見てくる人達の視線に、場違いな声量を繰り出したネジは続けざまにヒナタに投げ掛けようとするのを留まった。別に、態度を改める程耳障りでもないものだったが。今日集った専門家達は皆神経質なようだ。
 失礼……とばかりに軽く咳払いをして、素直に自省したような彼は、静かにヒナタの隣の椅子に腰掛けた。顔見知りであるヒナタを見掛けたからか、今しがた明るい声を出したネジは、一転してこの張り詰めた空気に馴染むべく、微かな言葉を寄越す。

「ヒナタ様も、読書ですか? 熱心ですね」
「そ、そんなこと……。兄さんも……?」

 読み掛けの物語もそのままに、ネジに合わせてヒナタもひそひそと声を潜める。今しがたネジが無言の冷眼に厳重注意を受けてしまった。此処の『住人』は宗家も分家も天才も常人も関係ないらしい。良い心掛けだがこれ以上は触らぬ神に祟りなしだ。無暗に読書に耽る周囲を刺激しないようにと、二人で肩を寄せ合って密やかに禁じられた『私語』を交わすと、秘密の悪戯をしているみたいでヒナタの心が弾んでゆく。ネジと一緒なら怒られるのもいいなとさえ思える。

「ええ……こう雨ばかり続いてしまうと、オレには退屈で」

 気分転換です、と答えるネジは、もう怒られたくないとばかりに苦々しい笑みを零した。今時分の空模様に参ってしまったようにも見える。ヒナタの横にある窓の外の景色を、漏れ聞こえる雨音を、少し煩わしそうにちらと彼は見た。
 雨が降れば外での鍛錬が中止になる。そうなると自然な成り行きで道場で汗を流す訳になるのだが、屋内での鍛練は磨く技もその規模も限られており、加減が必要だ。延々と柔拳の型を作ることや瞑想をすることにも、意味があるのだが、それも余りに長引けば、流石のネジも気が滅入ってしまうのだろう。

「よく来られるんですか?」
「えっと……たまに」

 少し興味のあるような素振りで、ネジの眼がヒナタの手元の本に落ちる。何を熱心に読んでいるのだろうと、聞きたそうにしているが、そうですか、とヒナタに返答してあっさりと引いた。余計な詮索をしないネジの配慮が、どこか胸を温かくする。
 一人で読み物を探しに訪れたり、または班の二人と調べ物をしたり。ヒナタにとっては身近な存在であったが、ネジとこの場所で会うのは初めてだ。彼は多分、本を求めて外に赴くよりも自室で静かに巻物を開くことの方が多いのだろう。それともヒナタが知らないだけで、彼は時々足を運ぶのだろうか。
 兄さんは? と問い返そうとすると、ネジは棚から抜き取ってきた本を開いて中身を読み始めた。
 此処は本来、そういう所だから。いつまでもお喋りしていたら周りにも申し訳ない。そっとヒナタは口を噤むと、自らの選んだ本に視線を落とす。

 パラリ、とネジの手元が一枚頁を読み進める。その間隔が、どうやら自分よりも早いようで、ヒナタは気になって度々読書を中断してしまう。
 ろくに進まない物語の展開を一先ず置いて、ちらりと隣を盗み見ると、ネジは片手で頬を支えながら肘をついて、悠々と文字を辿っていた。真面目で塗り固めたようなネジが、こんな仕草もするのだ。
 見ている内にまた一枚捲られる。挿絵の一つもなく細かな文字が詰め込まれた本は、ネジに何を教えるのだろうか。今以て彼の知らないこととは。その気になれば文字を覗き見ることも可能な距離であったが、内容に惹かれながらもヒナタはそうはしなかった。ネジのさりげない心配りをヒナタも返しただけだ。
 その代わりに普段はまじまじと見られないネジの姿に見入る。白い頁に添えられた長く綺麗な指は、鍛錬に通じる無骨さもありどこか知的だった。黙考しながら直向きに文字を追う姿はネジに良く似合っている。だから……偶には来たら良いのに、と思う。溢れる才能で愚直に柔拳ばかり突き詰めていないで、偶にはこうして、ヒナタの側に。



「早く、止むと良いですね」

 地面を叩く雨粒がやはり煩わしいのか、集中力の切れ目に殆ど独り言のようにネジが呟く。ヒナタにはとても心地良かったけれど。本当のことは言わなかった。

「……はい」

 穏やかな微笑を向けてヒナタはただ従順に頷いた。ネジの隣で聴く雨音はこんなにも優しく耳を打つ。


 明日も雨だったらまた来てくれますか?
 当たり前のように隣に座ってくれますか?
 少しいじわるかもしれない、けれども至極純粋な祈りを込めて、ヒナタは細い雫を落とす仄白い空を見上げた。


(明日も、ずっと、雨が降りますように)


『祈雨』




 こんな雨の日は、一緒に書を読みましょう



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