ai no kanzashi

□微熱
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※現代パラレル設定です








 待合室でコンコンと咳き込む声。隣に座る母親に赤い顔でぐったりと凭れている子供。此処に集まる人々は、皆この病院の医師の診察を必要としている。早く薬を貰って楽になりたい、してあげたい――。そんな彼らの思いを感じ取ると、ヒナタは申し訳なくなって、隠れるように俯いてしまう。仮令数分でも、ヒナタの診察の分だけ皆を待たせてしまう。比較的軽度な症状のヒナタは、最後の診察でも、良いという謙虚な心持ちであったが……現実にはそうはいかず。
 診察室から看護師が顔を出して、きちんと受け付け順に、次の患者を呼ぶ。何となく皆が自分に注目しているような気がして胸が詰まる。顔見知りでもないから、そんな訳はないのだが……。
 順番が来て、呼ばれたヒナタは、周囲の気を引かないよう、そっと待合室の椅子から立ち上がった。 





――ネジヒナ*現代パラレル(お医者さん×患者さん)――





 診察室に入ると、カルテに目を落とすいつもの医師の姿があった。いつ見ても真っ白な白衣を纏っていて、長い髪を後ろに束ねて垂らしている。3回目ともなれば少し慣れてきて、無意識に色々と観察してしまう。会う度に『こんにちは』と声を掛けてくれる彼は、目の前の椅子に腰掛けたヒナタを見て、不可解だという心境を隠さなかった。

「……まだ、下がりませんか」
 
 患者のことを、疑うという訳ではないのだろうが、ヒナタにはそのように聞こえてしまった。ただ、無言で真実を首肯すると、7度2分……と、診察前に病院で測った値をカルテから読み上げられる。一拍置いてからネジは動き出した。
“ちょっと胸の音、聴きますね”と、俊敏な医師に聴診器を準備され向き合われて、ヒナタは慌てて服の裾を捲った。
 途中まで捲った裾を、ネジは押さえると、中に手を忍ばせてヒナタの胸元に聴診器を当てる。それが終わると口を開かせて、ライトを当てて喉の状態を視診する。両耳の下を指で辿って扁桃腺の腫れも診られる。一連の動作はこれまでと全く同じだった。そして結果も。今も尚、ヒナタには原因不明の微熱が続いていた。

「相変わらず、怠い感じですか? 頭が重い感じもします?」

 聴診器を耳から外して、此方を覗き込む瞳に、ヒナタは消え入る声ではい、と告げた。手っ取り早く、薬だけ貰うことが出来れば良かったのだが、ただの微熱であるのに、手間取らせてしまっている。ドアの向こうには、彼の診察を待っている人達が沢山、いるのに。
……やっぱり、こんなことで来てはいけなかった。
 対処に考えあぐねているような医師の横顔に、ヒナタは膝に置いた手を握り締めた。ふむ、と顎に手を当てていたネジは、思い悩むヒナタにあけらかんと提案した。

「……点滴、していきますか? 楽になると思います」





💊





 診察室の一角に、寝返りも打てないような幅の簡易的なベッドがあって、カーテンを引かれて、ヒナタは其処に寝かせられた。針を入れて、点滴をセットした後、看護師はネジの元に戻って診察の助手をしている。患者とネジの会話が聞こえた。どんな相手にも彼は誠実に話を聴いている。皆から慕われる、良い医者だなと思う。
 投与されている風邪薬の副作用か、その内うとうととしてきて、ヒナタは穏やかな声音を聞きながら瞼を閉じた。


――日向さん。
 急に、眠っている意識の中にそう呼び掛けられて、ヒナタはゆっくりと現実に戻って来た。再び鼻につく薬品臭は、子供の頃は注射を思い出して嫌だったが、今はこの病院の、清潔なネジの印象になっていた。
 カーテンがそっと開けられて、中に誰かが入ってくる。薄く目を開けたヒナタに、端整な顔が近付いた。

「……どうですか?」

 淡い色素の目元がヒナタを覗き込んで、額に触れる。ひんやりとした掌の心地良さに、抗えずに目を瞑って、ヒナタは深く息をつく。

「はい……大丈夫です。楽になりました」

 力の抜けた、うっとりと吐かれた声は、ネジの表情を柔らかくする。額から手が離れると、ヒナタの乱れた前髪が優しく整えられた。

「……きっと、疲れてしまったんでしょうね。季節の変わり目だから………後は……体質かもしれませんね」

 丁寧に、前髪を額に撫でつけられて、頭の中にネジの声が溶け込んでいく。今まで頭重に苛まれていたヒナタを包み込むようで、とても心が落ち着いた。
 診察室は静かだった。他の患者はいないらしく、看護師同士の話し声や、何かの器具を触る音が遠くの方でする。

「微熱って、中途半端で、厄介なんですね。それ程熱が上がらないから、頑張ってしまって、悪化させてしまったり……辛いですよね。調子が悪い時は、無理をしないのが一番ですよ」

 逆に高熱が出ていても、けろりとしている人もいますから。
 今までやはりそんな患者を診た経験があるのか、ネジはそう言ってニコリと笑った。若き医者の目元に、人を慈しむ皺が刻まれた。
 だから、『来てはいけなかった』などと、思わなくて良い。ヒナタが辛いと思えば辛いのだ。仮令微熱であっても。感じ方は、人それぞれだから。
 白衣の胸元についている名札を眺めながら、ヒナタは話を聞いていた。頷くと、不意に泣き出してしまいそうだったから、唇を結んで黙っていた。『日向ネジ』と書かれた、自分と同じ苗字を持つこの彼は、患者の気持ちがとても良く分かる。

「解熱剤も、そんなに出せないので……一般的な風邪薬を、処方しておきますね。また辛くなったら、いつでも来てください」
「はい……、あの」
「ああ、終わるまで、もう少し横になっていてください。ゆっくりしていて、良いですから」

 ネジがこの場を立ち去るような予感に、ヒナタは身を起こした。ありがとうと一言、口にしようとすると、肩をそっと押さえられてまた寝かされる。ココで医者に逆らうのは、どう考えても得策では、ない。大人しくじっとしているヒナタを見ると、ネジは目を細めて、カーテンを揺らしてその向こう側に行った。

 再びドアが開いて新たな患者が招かれる。泣きべそを掻いた子供が、優しくネジの声にあやされているのが聞こえる。今度も彼は患者を元気にしてくれるだろう。そう思ったヒナタは何も気にせず穏やかになった心のまま瞼を閉じる。高い熱が出てもそうでなくても。ネジは万人を癒す力を持っている。





「こちらが、お薬になります。お大事にしてください」
「はい……ありがとうございました」

 受付の女性から薬と明細書を貰うと、ヒナタはネジに言えなかった言葉を紡いで病院を後にした。
 外はぽかぽかと暖かかった。少し冷たく感じた季節の変わり目に吹く風も、今はさらりと涼しく頬を撫でていく。
(嘘みたいに調子が良い)
 点滴が効いたようで、体が軽かった。今すぐにでも駆け出せば空にまで手が届くような気がした。春の始まりの、蒼い空へ。

 
――日向……せんせい。
 青い色にそっと思い浮かべた名前は、特別な響きをしていた。偶然にも自分と同じであったが、何故だか大切だった。
 ヒナタは貰った袋の中から明細書を取り出した。中には処方された風邪薬の説明が、薬の写真と共に書かれていた。

「日向……ネジさん」

 その枠の外に書かれた、『担当医師・日向ネジ』の名前。何度も目で辿ってヒナタは一度だけ呟いた。次に会ったら、直接お礼を言いたい。

 澄んだ眼差しと優しい指先を持つあの人へ。
 ネジに撫でられた前髪が、さらりと春風に吹かれた。




(了)

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