ai no kanzashi

□微熱U
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 あの時癒えた筈のヒナタの熱が、まだどこか体の奥底に燻っている、そんな感覚が続いていた。
 忙しなく心が幸せに満たされたり切なさに萎んだりする、果たしてこれは何という病なのだろうか。





――ネジヒナ*現代パラレル(お医者さん×患者さん)U――




 最後の診察から2ヶ月あまり。ヒナタはまたも老若男女の集まる待合室にこぢんまりと収まっていた。今度は口元というか、大凡顔の半分以上を、大袈裟なサイズの白いマスクで覆ってきた。そんなに虚弱体質な訳ではないと思うのだが、考えてみれば『季節の変わり目』は年に数回やって来る。どうも自分はそういう時に弱いのだと、2ヶ月前に言われた彼の言葉に見事に得心がいった。
 そのうち診察室に呼ばれ、マスク越しに小さく返事をして中に入る。相変わらず長い髪を後ろに束ねて、直向きにカルテに向かっている白衣のネジの姿があった。懐かしかった。恐らく今目を通している記録は、自分のもの。そうしながら、ネジは何十何百と受け持った患者の中から、数か月前のヒナタの容態を思い起こしている。

「あれから、どうですか? 日向さん。微熱の方は、治まりましたか?」

 まだカルテに目を落としたまま、ゆったりとした問いだけがヒナタへと向かう。そこに彼のヒナタを気遣う気持ちが含まれているかは分からない。多忙な医師だ。けれど、数多にある患者との記憶の中で、自分との関わりを覚えていてくれたことが単純に嬉しかった。あの時の些細な熱はヒナタを随分苦しませたが、反面ネジとの繋がりを齎した。医者と患者という、特別でも何でもない関係だけど。

「はい……熱は、大丈夫なんですけど」

 一方で、控え目に声帯が震えて音となったヒナタのそれは酷くひ弱だった。今回は辛い頭重もなく、体中が倦怠感に包まれるような症状もなかった。ただ、呼吸をする度に喉がヒリヒリと沁みて、参ってしまったのだ。

「喉ですか……今、そんな風邪が流行っているんですよね」

 ヒナタの話に暗鬱な先行きを忍ばせるネジは、案外さっぱりとした口調だった。才子の憂鬱はそのうち目まぐるしい日々に忘却される。高い専門的知識を有する彼には、そういった傾向を把握・分析しつつ、一人でも多くの患者を癒すことが最優先事項(ファーストプライオリティ)として課せられている。
 ネジの右手がカルテに流麗にメモを取っていく。さらさらと難解な異国の筆記体を生み出した後、パタリとペンが置かれた。微塵も迷う様子なく、椅子がくるりと回って、ネジが俊敏にヒナタに向き直った。
 ちょっとマスク、外してもらえますか? ――言いながら距離を詰められて、ヒナタは顔の殆どを覆っている不格好なマスクを急いでずらすと、口を開けてネジの診察を受け入れた。涼しげな目元がじっと注がれて気になると言えば気になる。格好悪いところばかり見られているようだが、ヒナタがネジと会えるのは決まって体調が芳しくない時なのだ。密かに恥じらうようなヒナタの乙女心に、ネジは少しも気付かぬように真剣な顔付きだ。ライトを当てたほんの一瞬で、ヒナタを苛んでいる、喉の奥にある腫れた粘膜の変容を、彼は的確に見て取った。

「ああ、痛みますね……辛いですよね。大丈夫ですよ。酷くなる前に、治してしまいましょう」

 決して大病を患ってはいない。笑ってしまうくらいちっぽけな体調不良だった。けれども労わるようにヒナタに語り掛けるネジは泣きそうなほどに優しくて、その上強気でとても頼もしい。もうまるで全てが癒えてしまいそうに。本当にネジはそんな力を秘めているのだろうと思う。ヒナタが我慢して我慢して、それでもどうにも良くならなくて縋る思いでネジの元に来たこと。彼はちゃんと汲み取ってくれている。




「うがい薬を出しますので、ちょっとこまめにやってみてください。外から帰った時にも、忘れずにお願いしますね。それと、抗生物質を……これは内服薬ですね」

 再びカルテに向き合った医師が、順を追っててきぱきとヒナタに説明していく。分かり易い言葉を選んでくれたので、ヒナタはその一つずつにきちんと頷けた。やがて紙の上を滑るペンが動きを止める。眠りに落ちてしまいそうな、心地よく紡がれていた声が不意に途切れて、キイ、と僅かに椅子が回り、ネジが最後にヒナタの顔を見た。

「それで様子を見ましょうか。乾燥するので、マスクはそのまま、つけていて良いと思います」

 今は着け直された、顔の半分以上を覆っているヒナタの白いマスクに、ネジの眼が注いで、やんわりと微笑い掛けられる。少しばかり小顔のヒナタには大きいのか、ぶかぶかで格好がつかなかったが、「上出来ですよ」と褒められたみたいで何だか頬が熱を帯びる。予防としては後手となってしまった。けれど間違いではなかった。恥ずかしげにマスクを指先で押さえて、暫く睫毛を伏せていたヒナタは……勇気を持ってネジを見つめた。

「あの、先生…………ありがとうございました」

 この間は言えなかった言葉を。掠れそうな弱い声だったけど。一語一句大切に、心を込めてネジへと贈ると……これが彼にとっては何よりの見返りだったのだろう。怜悧で人懐こい目元が一層柔らかくなった。

「いいえ、どういたしまして。お大事にしてくださいね」




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