ai no kanzashi

□微熱U
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V



「先生、あの……私、あれからおかしいんです」

 指先で胸元を押さえたヒナタからの、突飛な話に、初めてネジが呆気に取られた。いつもは苦しむヒナタを労わって、優しく言葉を掛けてくれるのだが、知的な彼の、こんな不思議に満ちた顔は初めてだ。

「おかしい……? 微熱のことですか? また、熱が出たんですか?」

 それでも臆せずに真摯に踏み込んでくる。いつでも患者の苦しみに寄り添おうとする、優秀で誠実な内科医。少々熱っぽいような赤らんだヒナタの顔を見て、そう予期したネジだが、肩に掛かる藍色の髪を揺らして、ヒナタはかぶりを振った。
 熱ではなくって……その……と、唇からははっきりしない返答が零れるばかり。ちらちらと目線をあらぬ方向にやりながらのそれが、聞き取り難いのか、よく聞こうとしたのか、ネジが幾らか身を乗り出した。薄紫の双眸に射止められて、必然とその先の声が殊に小さくなる。

「ちがう、熱…………かも、しれないです……」
「違う熱……? それは、具体的にはどういう……? どんな症状なんですか?」

 不可解な言葉がネジの端整な眉をピクリと反応させる。ただ単に医療に携わる者として、聞いたことのないヒナタの話に興味を抱いているのか、この医者は要領を得ない患者の訴えをあしらうことをしない。これまでだってそうだった。辛い時に頼ると必ずネジが苦しみを取ってくれた。だからこそ助けて欲しい。この訳の分からない、肌が粟立つようなどこか甘美な震えは何。遂には全身が痺れたように気怠くなって、ヒナタの目がのろのろと緩慢な動きで床を辿り、繊細な睫毛を伏せた。

「わ、分かりません……でも……この前の微熱とは、ちがう気がするんです……何だか、胸がすごくどきどきして……」
「動悸ですか……他にも、変わったことはありますか?」

 一週間前に更新したばかりのヒナタのカルテにペンが走る。いつもと異なる熱、動悸、さて他には。真新しい病の情報にネジの手元は滞りなく流麗な筆記体を生み出す。

「せ……先生を」
「はい……、はい? オレですか?」

 カルテに向き合っていたネジが、『Dr.』と書き込んだ自分の筆跡をまじまじと眺めて、顔を上げた。唐突に浮上した自らの名に、愈々目が点になった。

「は、はい……日向先生のことを考えると……その、とっても…………どきどき、してしまって……じ、自分では、どうにもならなくって……私……どうしたらいいのか」

 はぁ……と熱っぽい嘆息を吐き出して、ヒナタは戸惑いながらもその熱が齎すものにうっとりとしている風だ。案の如く、このような患者を、ネジは診たことがない。

「オレの、ことを……?」

 ヒナタの胸に置かれた、桜色に淡く染まった指先にネジは目を留める。この中にいる存在が、堪らなくココを焦がすのだ。時には穏やかに揺らめき水鳥を憩わせる水面のように。時には船が転覆するような荒々しい感情の大波と化して。その全てを操るのが、ネジだと、ヒナタは。


「……日向さん……それは……ただの熱ではないです……」

 静かな呟きにそっと顔を上げると、ネジは顔面を押さえて、参ってしまったように項垂れている。案の如く、このように挫けたネジをヒナタは見たことがない。このネジでもやはり治せない病はあるのだろうか。

 しょんぼりとしたヒナタに、やがて迷いが吹っ切れたのかネジが向き直る。キイ、と椅子が回った。カルテも何も見ない。今は飾りのように白衣にぶら下がった聴診器。有能な内科医が示した特効薬は、ヒナタの予想を遥かに超えた。

「そうですね……。とりあえずは、安心して、オレのことをたくさん考えてください。オレが責任を持って、治して差し上げますから」



恋の熱
(治る見込みはあるのでしょうか? 先生)
(治るまで通院してもらいます。長期戦です)


Fin.
ご通読ありがとうございました。

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