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□春の淡雪
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ぼんやりと覚醒した意識の中、大きな背中がバスルームへ向かうのを見送った。

シーツの隙間は微睡みのようにあたたかくて、うっとりと目を閉じる。
シャワーを使う水音が微かに耳に届いた。

カーテンの閉じられた室内は昨夜のように薄暗くて、一体今が何時なのかもわからない。
ただただ、ぬるま湯のような幸福感に浸っていると、夕神さんが戻ってきた。
シャワーからどのぐらいで戻ってきたのかわからないほど、時間感覚すらも失っている。

暗闇の中、夕神さんがタオルで身体を拭い、衣服を身につけ始めたのがわかった。
視界から消えると、向こうの方でベルトを身に着ける音がカチャカチャとせわしなく響く。
その金属音にどきどきと心音が高鳴るのを覚えた。

ズボンを身に着けて戻ってくると、夕神さんがカーテンを開けた。
朝の白い光が一気に目に飛び込んでくる。

軽く眩暈を覚える中で突然、上半身裸の夕神さんの背中が目に飛び込んできた。
タオルで黒髪から滴り落ちる水分を拭っている。

その綺麗な肩甲骨や、しなやかな身体つきに思わず言葉を失うほどに――見惚れた。

逞しい背中に腕をまわして、めいっぱいに甘えてしまったのを思い出す。
たちまち昨夜のあれやそれが思い起こされて、私は顔を熱くした。
みるみるうちに、じわりと頬に血が集まるのを感じる。

私の熱い視線を察したかのように、夕神さんがくるりと振り返る。

振り返りざまにこちらを見て驚いたように目を瞠ったかと思うと、朝陽の中でニヤリと面白そうに笑った。
黒スーツのズボンを身に着けた大股で、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。

「照れてやがんのかい。お嬢ちゃんよ」

わざと子ども扱いするようにお嬢ちゃんなんて言いながら、大きな手でわしゃわしゃと私の頭を撫でてくる。
その心地良さに身を任せ、飼い主に可愛がられる猫のように目を閉じた。

こんなふうに頭を撫でてもらうのが好きで――大好きで、いつも安心感と同時にときめきが呼び起こされる。

(この手が昨夜、私を…――)

自覚すると、むずがゆいような、なんとも言えない気持ちになって身体の奥が熱くなってゆく。

しばらく私を撫でた後、夕神さんはキッチンの方へと向かった。コンロに火をつける音が聞こえてくる。

初めて訪れた夕神さんのマンションはシックなモノトーンで統一された部屋だった。
和室も予想していたのに、室内は洋風で現代的な雰囲気が漂っている。

一人暮らしの男の人の部屋のわりに、室内は整頓されていて物がほとんどない。

囚人時代は早朝に叩き起こされると、まずは身辺の整理整頓や掃除をさせられたのだという。
その名残が身体に染みついてしまっているらしい。
磨き上げられたように光る床に驚く私に、夕神さんが皮肉気な笑みを浮かべて昨夜――そう語ったのだった。

やがて室内が薫り高い日本茶の匂いで満たされる。
部屋は洋風なのに、昨夜から口にするものは清酒や番茶だった。
そうした雰囲気が、紋付き袴と黒スーツを粋に着こなす夕神さんに良く似合っていた。

湯気の立つ大きな白いマグカップを手渡され、息を吹きかけながらゆっくりと熱いお茶を嚥下する。
そんな私の仕草を、夕神さんは静かに見守っていた。

「外を見てみな」

お茶を飲み終わると夕神さんがひょいと顎を窓に向け、外を見るように促してくる。

裸にシーツを巻き付けてベッドの下に降り立つと、素早く窓の方へと向かった。

「わぁ」

外は雪化粧を施されたかのように、春の淡雪が薄く積もっていた。
都会の真ん中にあるはずなのに、旅館から雪景色を楽しんでいるような、しみじみとした気持ちが胸に湧きあがる。

夕方になる前には完全に溶けてしまいそうな淡い雪を眺めていると、心の奥がしっとりと湿り気を帯びてゆく…――


『三十路前の囚人上がりを本気にさせちまったんだ。
……どうなるか分かってるだろうな』


いつものようにくいと顎をしゃくり、からかうような挑発的な笑みを浮かべていたはずなのに…。

――だいぶ飢えていることを私に訴えていたはずなのに、蓋を開けてみれば恐ろしいほど大切に扱われていた。
壊れ物を大事に扱うような手つきで私の肌をすべるようにいつくしみ、絹糸に触れるように幾度も髪を梳いた。


(夕神さんはいつも自分より人を優先させるから……)

(ぶっきらぼうな口調に隠された優しさは、さりげなさ過ぎて気が付く人も少ないけれど)


心の奥底から滲み出るような本当の優しさに気が付いた人は、間違いなく夕神さんを慕いたくなってしまう――そんな魅力があった。

昨夜シャワーを浴びて冷たいシーツの隙間に潜り込んだ後、私は緊張で身を固くしていた。
シャワーから出てきた夕神さんがベッドに潜り込んでくると、耳元で鳴る心臓の音でいよいよわけが分からなくなっていた。

抱き締められて髪を撫でられる間、夕神さんの胸に耳をくっつけて心臓の音をひたすら聞いていた。
夕神さんの鼓動も激しく脈打っていて、私だけがドキドキしているわけじゃないんだと思えたことに密かに安堵した。

髪を撫でられてゆくうちに、次第に強張った緊張が解けてくる。
腰を撫でる指遣いに僅かに息が上がった。

スプーンも挿せないほどに凍ったアイスクリームが上質にとろけて美味しくなるまで待つように、夕神さんはゆっくりと私に触れていった。

恥ずかしくてほとんど顔を見ることも出来なかった。
「大丈夫か」と低い声で訊かれるたびに、小さく頷きを返すことしかできなかった。

言葉を交わすのも恥ずかしすぎて、意思を伝えるために言葉以外の手段を使うしかなかった。

切ないため息と吐息だけで満たされた静寂の室内で、夕神さんの大きな背中に腕をまわす。
どうしたと聞かれてもやっぱり何も言えなくて、熱くなった頬を胸元にうずめるしかなかった。

優しく尽くされてばかりで、内心これでいいのかと気にかけていたけれど、
蜜のように紡いだ私の甘い声を聞いて、夕神さんの息遣いが荒くなったのをはっきりと感じた。

そのことに気が付いてからは、我を忘れるほどに夕神さんに甘えて、その腕の中で乱れてしまった。



そんなことを思い出していると、窓ガラスに吐息がかかって白く曇ってしまっているのに気づく。
昨夜のため息の片鱗が残っていやしないかと、朝の清涼な空気の中で頬を熱くした。

室内が急に湿り気を帯びたように、しっとりとした静けさに浸される。

――この上なく、幸せな気持ちだった。

胸の内の喜びが湿り気を帯び、空に蒸気して淡雪となって霧散したような――そんな錯覚を覚えそうなほどに幸福感で満たされていた。
もう他に何もいらないような心地がした。



「一丁前に誘ってやがんのかい」

アァ?

煽るような低音が鼓膜に触れる。
びくんっ、と大きく肩が跳ねた。

音もなく、いつの間にか背後に忍び寄っていた夕神さんの息遣いに息を呑む。
面白がっているような、僅かに愉悦を含んだ吐息交じりの笑いが、耳や首筋を愛撫する。

身体を通して振動するような、胸に響く低い声に官能を刺激された。

「……っ」

身体をくるんだシーツがはらりと解けて床に落ちる。

首筋に感じる息遣いのこそばゆさに身悶えるうちに、じわりと身体が熱を帯びた。

一糸纏わぬ姿になった私の肌に、夕神さんの熱い手が触れてゆく。

潮の満ち引きが繰り返されるように、断続的に身体が火照りを覚える。
また火がついてゆくのを感じた。
驚くほど静かで的確な指の動きに、せつない気持ちで声を堪える。
もどかしい気持ちでいっぱいになった。
海の底へ沈み込んでゆくように、際限なく夕神さんを求めるようになってしまいそうで、そんな自分が少し怖い。

窓の外からこの光景を誰かに見られたらと思うだけで、息遣いが荒くなった。
それに気づいたように、夕神さんが屈んで私の膝裏を持ち上げる。

仔猫を抱きかかえるように軽々と横抱きにされて、声を上げる間もなかった。

「このユガミを誘ったんだ。覚悟しな」

ベッドの上に押し倒されると同時に甘い口づけが降る。

それは――すぐに溶けてしまいそうな儚い春の淡雪のように、柔らかくて優しい口づけだった。


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