ゆめ
□始まる。
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あのときのことは、あまり覚えていたくない。
わたしが八つの時。
澄んだ空気が少し肌寒い十月の朝。
父上がめずらしく剣の修行をせずに、朝からせっせと家事をしている。
いつもはわたしが日が昇る前に起きて、朝餉の支度をして、しばらくしてから父上が大きな欠伸をしながら起きてくるのに。
今日はわたしより先に、台所に大きな背中が見える。
「父上・・・おはようございます。」
わたしのか細い声に父上はくるりと振り返り、にかっと笑いながら「おう、起きたかすず!早起きさんだなぁ!」と頭をわしわしと撫でてくれる。
すこしくすぐったい。
でもそんな父上が大好き。
「・・・今日はなにか用事があるのですか?」
「おぉ!今日はなァ、すずと出かけようと思ってな!弁当も俺が作ったんだぞ。」
すると父上は撫でる手の動きを止め、声を少し落として言った。
「・・・今日は、母さんに会いに墓参りに行こうな。」
そのとき気づいた。
今日は、母上がお空に昇った日。
一年前に母上が亡くなった日。
「・・・はい!」
わたしと父上が暮らすこの家は山村地域にあるから、母上の墓参りはなかなか行けない。
今日の天気は雲行きがあやしいけれど、今日こそ行かないと母上がさびしくなってしまう。
と思いきや、生憎の大雨。
山全体を黒い雨雲が覆い、空気がさらに冷たくなった。
大粒の雨が、周りの気配を掻き消していく。
わたしのため息も無節操な雨音で消える。
「・・・まぁ、しょうがねえな。母さんには雨が上がったら会いに行こうすず。」
まだ雨空を妬ましく見つめているわたしに、父上はわたしのそばに腰を下ろし空を見上げながら言った。
「憎い・・・なんて思っちゃいけねぇぞ?すず。感謝しねェとな!」
「かんしゃ・・・ですか?」
「おうよ!俺らにとっちゃ不都合だけどな、こんな大雨でも動物や山にとっては恵みの雨だ!どんな悲しいことでもつらいことでも、それには必ずありがてェって思うところがあるんだ。」
胸を張ってそう言う父上。
「・・・母上が死んだことも?」
いつの間にか涙声になっていたわたし。
「・・・母さんは、病気のときは苦しそうだった。だけどよ、最後は・・・俺らとお別れするときは、笑ってたろ?」
「・・・・・」
「・・・だから、お天道様に感謝すんだよ。母さんを楽にしてくれてありがとうってな。」
「ありがとう・・・ぐすっ。」
「ははっ!めそめそすんなすず!ぞれでも武士のグスッ・・子供かぁ!!グスッ!!」
「あはは・・父上・・・鼻水垂れてます!」
おてんとうさま。
恵みの雨をありがとう。
母上を楽にしてくれてありがとう。
父上とわたしを見守ってくれてありがとう。
わたしも父上を守れるように、剣の修行をがんばります。
周りはすべて雨音。
父上の顔つきが急変した。
「・・・父上?」
父上は家の外の方を鋭く見つめている。
するとそばにある愛刀を静かに腰におさめ、ゆっくりと立ち上がった。
「父上どうかしっ・・・!!」
「静かに・・・!!」
父上はわたしの口を強く塞ぎ、耳元で囁いた。
「・・・いいかすず。俺が良いというまで台所に隠れてろ。・・・いいな?」
涙目で頷く。なにが起きているかわからない。
父上はわたしを抱きかかえて台所に座らせた。
カタカタと震えているわたしを落ち着かせるように頭を撫でる。
「・・・いいか、すず。感謝だ。」
そう言ったときの父上の顔は、
とても悲しそうに笑っていた。
刀を手に家を勢いよくとび出した父上。
わたしを置いて。
薄暗い台所でうずくまることしかできないわたし。
一体なにが起こっているのか。
なぜ刀を持って行ったのか。
何もわからないのに、こわくてこわくてたまらない。
涙が止まらない。
「・・・感謝・・・感謝・・・!!」
ただおまじないのように唱える。