les fatras
□鴉
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「鴉」
(一族が絶えたのは、この悪行の所為であろうか)”
それを初めて聞いたときは、柄にも無く腹が立ちました。
腹立たしくて、悔しくて、そうして――唐突に、そんなものかと、思ってしまったのです。
右も左も解らないようなぬめりとした闇の中で、私は取りあえず一歩前へと踏み出してみることにしました。草があったりなかったり、地面がむき出しになっていたりいなかったり、人がいるようでいないくせに、確かに人の蹂躙した跡のある、そんなあまりにも中途半端なこの場所を、私は実はずっと昔から知っていました。
そう、私がまだ私でなかったずっとずっと昔の頃から。
別に何も珍しい場所だということも、特別な場所だということもありません。
私はこれによく似た場所をいくつも知っていましたし、この場所の方だって私のほかに恨むべき御方が沢山いるのですから。
此処で己でなくなる方もそれは沢山いらっしゃいましたが、私はそういうわけでもなく、では何故此処を選んで来たのかと言われれば、言葉を詰まらせるよりほかないのです。
私がまだ私でなかった頃、私は随分と色々なことをしたものです。
信念や、正義や、温情や義理や策謀や、その他色々なことを考慮して、思案して、熟考したのちに幾つもの選択肢の中から一つの道を選んできたのです。
勿論そんな余裕のないときも沢山あって、そんなときは己の直感と本能と、仲間への信頼と仲間からの信頼を頼りに、やっぱり幾つもの選択肢の中から一つの道を選んできたのです
そうしたつもりであったのです
(無辜の民衆を酷い目に合わせた、そいつがその張本人だ)
しかし、私は唐突に、そんなものかもしれない、とも思ってしまったのです。
私が心を砕き、綿密に采配をしたそれらは、結局のところ皆同じことであったように、思ってしまったのです。
ひとの心のうちも知らずに何を吹聴する、とはじめは確かに思ったような気がしますが、結局ひとの心のうちなどというものは他人には窺い知れぬものであるのだから、然らば他人の判断の届く部分を判断された結果そういうことになったというならば、それはそれで決して間違った考えではないのでしょう。
私は私なりに、色彩豊かに過ごしてきたつもりでしたのですが、しかしやはり結局のところ、同じようなことをただただ馬鹿の一つ覚えのように、ひたすらに繰り返してしまったのではないでしょうか。
そうであったのではないでしょうか。
富や名声が欲しかったのではない……いや、それとも私は、それを確かに欲していたということになるのでしょうか。
最早私ではなくなった私に、それが解ろう筈もありませんが。
あまりにも中途半端なこの場所は、あまりにも中途半端なこの私にとてもよく似合うのです。
ふと、なにか曖昧なものの気配を感じて、私は思わず目を疑いました。
とてもとても、曖昧ななにか。しかしそれは確実にそこに息づいていたのです。
それそのものが実際に見えたわけでは決してありません。ただ、私とそれとの視線がどんなに刹那であろうとも絡まったというそれは、確かなことであるのです。
それそのものが実際に垣間見えたわけではないので、それが何者であるのかなど解るはずもありません。私たちは、以前のように、共鳴しあったり、いいやあるいは、共鳴しあおうとするふりをしたりはしないのです。なぜ、そうしないかはわかりません。ただ、そういうことをするような概念はないのです。そういう風に出来ていないのですね、きっと。
歩みを止めたのが急に馬鹿馬鹿しくなって、私はそのまま歩き出しました。
きっと、そういう風にはできていないのでしょうけれども、
私には、解ってしまったこともいくつかあるのです。
例えば、それが、まだそれでなかった頃のことを、まだ私でなかった私はきっと知っていたということや、それが、かつてのそれであったときにかつての私がいかにそれにひたむきでいたのかということや、要するにそういったことのことです。
以前の私が半生をそれ――彼に捧げ、死力を尽くして一体何をしようとしていたのか、今の私にはもう解りません。彼もきっともう解らないでしょう。
私たちは、もうそれすらも解らないほどに、曖昧なものなのです。
ですが、以前の確固たる私たちが、今の私たちより曖昧でなかったといえば、やはりその時はその時なりに曖昧であったような気がします。
曖昧な私と曖昧な彼が揃ってこの曖昧な場所に来たということは、やはり此処には何か特筆に値する何かが存在しているのでしょうか。
私が私となってから、私であった前の知人なんぞとすれ違ったのは此処が初めてだったのです。幾多の土地を本能のままに廻り歩いた、そのなかで初めての出来事であったのです。
ですから、きっと何か特別なことがあるのだろうと幾分期待を込めて、私はあたりを捜索し始めました。何もありません。強いてあげれば彼の存在はまだ感じるのですが、それはこの際重要ではないのです。それを重要なことではないと私が思っているので、彼の存在は感じていないということに等しいのです。つまりやはり此処には何もないのです。
膝を折って、手をむきだしの地面にあててみました。ごつごつとしたその手触りは、私が本当にそう感じているのか、それともかつての私がそう感じたその記憶の再生であるのか、どちらにしても、それはとてもごつごつとしていました。草の生えたところを触ると、いろんな種類の葉がざわざわと――ああ、この音も、本当に音がしているのか、私がそうと思い込んでいるだけなのか、解りません――ささやきあっておりました。草の上は本当に複雑な手触りです。とても、複雑なのです。
ふと、私の感覚に一つの映像が浮かび上がってきました。
ぬめりとした暗闇にすっかり慣れてしまった私は、その色の余りに鮮やかなのに大層驚きました。しかもその鮮やかなものは一定の形を取らず、前後左右に踊り狂って、次々と辺りを自分のものにしていくのです。その、強気なくせに曖昧な存在から、自らとの類似点を見出して少しだけ嬉しくなりました。
そこで初めて、どうしてこの中途半端で曖昧な場所が中途半端で曖昧な場所であったのか気がついたのです。他ならぬ私が、この場所、いや正確にはこの場所にいたかつて敵と呼び合った者たちへ、あの強気で曖昧で、余りに鮮やかなあれを――名前はもう忘れてしまった――放ったのですから。
思い出せたことにすっかり嬉しくなって、私は背中からごろりと寝転び、立っていた時には頭上であった、今は私の前方となった方角を真っ直ぐに見つめることにしました。ぽつぽつと針で刺した穴のように光るあれを見るのは、今の私も以前の私も変わらずに出来る数少ない行動です。私が私となってから私に起こった幾多の感覚の変化は本質的にあまりにも私であったので、よってとても簡単に受け入れられることばかりだったのですが、やりなれていることをやりなれているように出来るのはやはり少しだけ嬉しいものなのです。呼びなれているものをどんどん忘れていくのはやはり少しだけ寂しいのです。
かつては頭上であった前方を、何かが独り占めするように飛んで行きました。
ぬめりとした闇の中でも違和感のない、寧ろその闇と同義語を持つそれは、一体なんという名前だったのでしょうか。
私は以前、このものたちのことを、なんという名前で呼んでいたのでしょうか。
(――ハク、ゲン)
耳慣れた言葉が聞こえました。いや、それとも幻聴だったのかも知れません。
得意げにソラを旋回するあのものたちは、そんな名前であったでしょうか。
私はそんな名前でこのトリたちを呼んでいたのでしょうか。
(――ハクゲン)
違いますよ、と私は殆ど言いそうになりました。
あれはそんな呼び名ではございません、と。
あのものたちは戦場に群れる賢いいきものです。
戦の途中ではありませんよ。
全てが終わった後、です。
私が全てを焼き払った後に、あのものたちはいつもきっと来るのです。
“あれは鴉、ですよ――陛下”