リクエスト
□コーヒーとチョコレート
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疲れた脳に染み渡ってくる苦い苦いコーヒー。
ふいに涙が零れ落ちそうになった。苦味を口の中で噛み潰すようにぎりりと奥歯を噛んで、必死に涙を飲み込んだ。
そういえば、ここ最近泣いていない。
泣こうと思って泣くものではないけれど、泣きそうになると自然と我慢して涙腺を引き締めてしまう。
生きていれば泣きたくなる事なんていくらでもある。仕事でのミスや家族とのいさかいに、友人との喧嘩。
頭を悩ます種はそこらじゅうに転がっている。だからこそ、涙を飲み込む日々を送っている。
シャットダウンしたパソコンの暗い画面に映った疲れた自分の顔を見て、内心げ、と思った。なんだか生気がないというか。ここ数日残業が続いていたせいだろう。
上からも下からも頼られるようになったため、忙しくなるのは必然的で、もうずっと定時に会社を出ていない。
本当は家でゆっくり大好きな苦いコーヒーを入れてお風呂にゆっくりと浸かって癒されたいものだが、そんな贅沢なことは言ってられない。
顔を上げていすから立ち上がると、誰の姿もなかった。コートがかけられている椅子がいくつかあることから、きっと社員の数人がまだ会議室にこもっているのだろう。
彼らは私よりもずっと遅くに帰宅するのだ。こんな事に不満を持ってはいけない。
暖房で火照った顔を手のひらで冷ましてから、かばんを肩にぶら下げると、両手をコートのポケットに突っ込んだ。今日は朝寝坊をしてしまって、手袋をしてくるのを忘れた。
デスクの上に残ったカップに視線を落とす。洗うのが面倒で明日の朝洗うことにして、部屋を出た。
エレベーターの下のボタンを押して、壁によりかかって到着を待つ。
これから駅まで歩いて電車に乗って、そうしてまた歩いてやっと家に到着。
こういう時いつもどこでもドアがあれば、という無理な想像をする。ないものはない。だから仕方がないのだけど、一瞬で移動できたらどんなにいいだろう。
「おおー。味覚バカ。お前も今帰りかー」
のんびりとした人をバカにするような口調。ため息を吐きながら振り返ると、案の定営業部の坂田銀時がこちらに歩いてくるところだった。
「何だ。糖尿の坂田」
「味覚ぐるいのお前にだけは言われたくねーな」
坂田とは部署は違えど同期で、企画部の私と営業部の坂田はそれなりに交流があって、仕事の相談やバカ話などを話せる気の置けない仲だった。
味覚ぐるいというのは、私がいつも飲んでいる苦いコーヒーを坂田が飲んで吐き出したことや、会社の同期で行われた忘年会でやった罰ゲームのロシアンルーレットで、からし入りのシュークリームを平気で平らげたり、大量のわさび入りのすしを平気で食べたことからきている。
そして糖尿の坂田というのは、私とは反対に甘党のスイーツ大好き坂田を皮肉ったものである。
「それにしてもお前、ひどい顔してんな。目が死んでるよ」
「あんたにだけは言われたくないわ。あんた常に目が死んでるわよ」
いつもならばもう少し威勢よく返すのだが、今日の私は坂田の言うとおり元気がない。それを感じ取ったのか、坂田は何もいわずに黙って到着したエレベーターに向き直った。
開いたエレベーターに先に入るよう促されて乗り込む。後から乗り込んできた坂田が一階のボタンを押した。動き出したエレベーターの中で、坂田は気だるい表情で私を見た。
「そんなにも忙しいの?」
「まあね。中間管理職ってきついんだなってのがわかりはじめたわよ。まだ私もそんな地位じゃないけどね」
「そら大変だな」
「そういうあんたも遅いわね」
「まーな」
「お菓子でも食べてたんでしょ。ここ、ついてるわよ」
そう言って坂田の頬に手を伸ばした。口端にチョコレートがついている。
指で拭ってやると、黙って様子を見守っていた坂田と視線がぶつかった。
どきっとして、引っ込めようとした手が止まる。坂田が自分を見る目が、なんだかいつもと違っていたからだった。
はっとして視線を外し、止まった動きを再開しようと手を引っ込めようとすると、今度はその手を捕まれた。
「何……?」
顔を上げて問うと、また何か含みのある視線を投げかけられる。
どうしてそんな目で見るの?
そう問いたくてもなぜかそれを口に出すことがためらわれた。
「お前、いつもしてる手袋は?」
「忘れてきたのよ。家に」
「ふうん」
そんなことを聞くために手を握ってきたのか。どぎまぎした自分が恥ずかしくなって俯いた時、音がした。エレベーターが一階に到着したのだ。
扉に向き直ろうとしたが、捕まれた手はそのままだ。
どういうつもりだろう。そう思って顔を上げると、坂田は無言で歩き出した。ひっぱられて私も歩き出す。
「坂田!」
誰もいない会社のロビーを通ってまっすぐ玄関に向かう。その間も坂田は私の手を握ったまま。
これじゃあまるで手をつないでいるみたいじゃないか。というか、実際その通りなのだが。なんだか付き合っているみたいじゃないか。こんなところ会社の人にでも見られたら、噂になってからかわれてしまう。
「ねえ!」
それなのに、声をかけても坂田は気にしてないのか返事が返ってこなかった。