リクエスト
□拍手喝采
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鉛色の空を、フロントガラス越しにじっと見つめる。
雨が降り出しそうで降らない。日が沈みそうでまだ沈まない。はっきりしない曖昧な天気が広がっていた。
車内に流れるラジオからは、夕方から早朝にかけて雨が降るでしょうと予報が流れている。日が沈むと一気に温度が低くなるので、風邪を引かないように。
いっそのこと風邪をひいてしまったらどんなにいいか。そうしたら今置かれている自分の状況から逃げ出せる言い訳になる。
しかし、それも風邪を引いている間だけのもの。そんなことを思いながらため息を吐き出した。
ラジオから流れる知らないポップスを聴きながら、信号が青に変わって車を発進させた。
しばらく車を流して時間を稼いだ後、目的地の前で車を停めた。
エンジンを切って運転席から見慣れた万事屋ぎんちゃんの看板を見上げる。この看板もきっと今日で見納めだ。
軽くクラクションを鳴らした。しばらくしたら出てくるだろうと、そのまま運転席に背中を預けてぼうっとしていると、階段を降りる音が聞こえてきた。
視線を助手席にやると、黒い傘を持った坂田さんが乗り込んできた。ドアを閉めてシートベルトをしたのを確認して車を発進させる。
「まためかしこんできたな。ブルーのドレス。似合ってんじゃねーの」
「冗談よしてよ。まさか坂田さんとオペラなんてね。世界一オペラの似合わない客よ」
「お前なあ……」
呆れたようにため息を吐いた坂田さんは、ダークグレーのスーツを身にまとっていた。とはいっても、それはいつものようなくたびれたよれよれの安物ではない。ブランド物のしっかりとしたスーツだ。大方依頼人が貸してくれたのだろう。
「仕方ねーだろ。仕事なんだから」
「だったら一人で行けばいいでしょう。急に呼び出さないでよ。財閥のお嬢様の警護なんて楽なもんでしょう」
「しょうがねーだろ。女がいたほうがあっちも安心するだろ」
坂田さんはネクタイをゆるめようとして、その手を止める。どうにも着心地が悪いのか、襟を直したりポケットに手を入れてみたりと落ち着きがない。しかも、今日の坂田さんはどこか不機嫌そうだった。
「もう少しどんと構えてなさいよ。それじゃあ貧乏丸出しよ。財閥のボディガードにはとてもじゃないけど見えないわよ。借金取りって言ったほうが納得するくらいよ」
「お前にだけは言われたくねーな。そのドレスは自前か?大方友人の結婚式用に買って着まわしてるやつだろ?人の結婚式ばっかり出て自分の婚期はすっかり遅れちまってるってか?ご祝儀ばっかり払って自分のもとに幸福は訪れねーのな」
「坂田さんにだけは言われたくないわよ。貧乏神」
不毛な言い争いはいつまでも終わりそうにない。あーいえば坂田さんがこーいう。その繰り返しでまったく進歩のない私たち。
坂田さんとは古い仲だが、昔からこの関係は変わらない。私はたまに坂田さんに頼まれて仕事を手伝っていた。
今日はストーカーに付きまとわれている財閥のお嬢様の警護のために、オペラ鑑賞にくっついていく予定だった。そこに、どういうわけか私も付いてくるはめになった。
それは突然昼間にかかってきた坂田さんからの電話に、ついぽろりと今日が休みだと話してしまったせいだ。
ならばお前もついてこい。ガキ二人がいないからちょうどよかったと勝手に話が進んでしまったのだった。
そういうわけで、せっかくの休みを潰された私は機嫌が悪い。
それでも坂田さんに付き合ってしまうのは、腐れ縁というか惚れた弱みというか、迷いがあるからというか諦めが悪いからというか。
仲が悪いのに好きだなんて自分でもばかげてると思う。いい大人がこんな貧乏人に惚れてるだなんて、本人にも誰にも知られたくない。
よって、私はいつまでも素直になれずにこんな風に憎まれ口を叩き続けている。
「そういえば、聞いたぞ」
憎まれ口の叩きあいがひと段落して、坂田さんが思い出したように言った。
「お前転勤するんだって?」
びくりと肩が跳ねた。どうしてそれを坂田さんが知っているのか?運転中だというのに驚いて坂田さんを見た。
坂田さんは気にせずにフロンとガラスを見据えたまま。静かに、前見ろ前、と言った。
視線を戻す。嫌にドキドキと鼓動が鳴っていた。
「今朝土方君がうちに来てよ。どうせお前は言ってないだろうからってな」
「……余計なことを」
私が機嫌が悪いもうひとつの理由が、これだった。
坂田さんには絶対に口がさけても言わないと決めていたのに。
「で、どこに転勤するって?夢の国にでも行くつもりか?」
「言えません」
「……俺にもか」
「秘匿なんです」
「ああそうかよ」
投げやりに返されたら何も言えない。唇をかみ締めてただただフロントガラスを見据えるしかなかった。