西へ東へ
□冬茜
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木々の間から見上げる冬の空は透き通るように青かった。
そんな美しい空を、山道の外れにある崖の下から見上げていた。
辺りは静寂に包まれている。
冬の山はぐっすりと眠りに落ちて、獣の声も、鳥の声も、羽音さえもしない。
時折吹く弱い風が、落ちた枯葉を揺らし、木の枝の間をすり抜け、ひゅーと心細い音を立てるだけ。
しんとした寒さに包まれた山に、人の姿があるはずもない。
数日に渡り降り注いだ雨のお陰で、すっかりぬかるんだ山の傾斜はもろくも崩れ、人の通る山道に崩れ落ちた。流れてきた土は、細い木々を巻き込み、石を転がし、そうしてわしをも巻き込んだ。
この季節に山に入るのはよくないと、山の麓のばあさんが言っていたのは当たりだった。もう少し、山の機嫌を伺っておくべきだった。
だが、獣が冬眠し、眠りに落ちた山は静かな空気に包まれ、奴の気配も探りやすい。
そもそも、依頼主が奴をどうにかしてくれと、わざわざ江戸にまでやって来て、泣きついてきたのだから、入らざるを得なかった。
どうにかしてくれと泣きついてきた幕臣は、すでに幕府を退き、京の山奥に隠居していたが、長くから結野家と付き合いがあるために、無視もできない。
それに、うまくいけば奴を式神に出来るかもしれない。
そうしてこの山に入り、奴の気配を探り探りここまでやって来たわしは、山道で声をかけられた。
若い女の格好をした美女が、突然どこから現れたのだ。
女は、山道に迷い込んだ旅人と勘違いし、わしに声をかけてきたが、その女こそが、探していた奴だった。
奴とは、京の大江山に住み着いた、鬼だ。
奴は、今年の春に大江山に住み着いたようで、春から秋にかけて、山に入った旅人たちを騙し、食らっていた。
何度か鬼退治に地元呪術者を呼んだようだが、その者たちは全て鬼にやられてしまったという。
それほどの器量の鬼。陰陽師最強と謳われる自分に、この鬼を手中に出来るか、試してみたくてここに来たというのも、理由の中にある。
実際、かなり手こずってしまったが、どうにか奴を屈服させることに成功した。
しかし、奴を丸め込んで気が抜けたわしは、崖崩れに気付くのに遅れ、そうして崖の下へと流されてしまったのだった。
どうやら、落ちた崖は低いようで、傾斜も緩やかで、自力で上れそうである。
だが、体のあちこちを打ったようで、うまく体を動かせなかった。誰かの手助けなしでは、歩くことも出来そうにない。
泥にまみれた自分の格好を見下ろして、散り散りにしている式神を呼びよせようかと考える。
しかし、呼び寄せたら他の仕事に支障が出てしまう。
やはり出来ないと、暮れていく空を見上げた時だった。
「もうすぐ日が落ちるよ」
崖の上から、声がした。若い女の声だ。
顔を上げると、落ち始めた西の日に照らされた女の顔が、ぽっかりと浮いていた。見たことのない女だった。
鬼か、と一瞬思ったが、気配を探れば鬼ではなく、ただの人のようだ。
ほっと安心した次の瞬間、どうして人がこんな所に、と疑問が浮かぶ。
どうやら、その疑問が顔に表れていたようで、女は崖の上から、するすると紐をこちらに垂らしながら、言った。
「麓の山村のばあさんが、様子を見てきて欲しいってね。帰りが遅いから、怪我でもしてるんじゃないかって、心配してたよ。あなたが江戸から来た、晴明さんでしょう?」
「ああ。そうだが……紐を垂らしてもらって悪いが、わしは体がうまく動かせんのじゃ」
「でしょうね。紐を握っていることくらい、出来ないの?」
「それなら」
「なら、そうして握ってて。私が引き上げるから」
淡々と言ったが、女の力で引き上げることなど、容易ではない。それでも、言われるがままに紐を握ると、勢いよく紐が引っ張られた。
驚きつつも、なるべく負担にならないように、どうにか体を動かして傾斜を蹴ると、崖下から山道へと上がることができた。
「助かった」
ぜえぜえと息を荒げて、地面に座り込んだ女を見る。
藍染の着物を着た、平凡な女に見えるというのに、どこにこんな力があるのかと感心していると、息を整えた女が、ふと顔を上げた。
そしてわしの顔を見た瞬間、一瞬ぎょっとした顔になった。
どうしてそんな顔をしたのかは分からなかったが、すぐに女は無表情に戻ると、泥だらけのわしを眺めて、立ち上がった。
「早く山を下らないと、もうすぐ日が暮れる。日の落ちた山道は足下が見えなくて怖いよ。連日の雨で土はぬかるんでるしね。急ごうか。……立てる?」
「立てんのじゃ。崖崩れに巻き込まれてしまってな」
「見ればわかるよ。泥だらけだもの。あなた、陰陽師じゃないの? それくらい、どうにかなんないの? ばあさんが自慢してたよ。隠居したお偉いさんだった爺さんが、あなたを呼んできてくれたんだって。式神とかいうのを呼び出して、運んでもらえないの?」
「鬼との戦いで、連れて来た式神はもう呼び出せんのじゃ」
「なるほど。鬼は倒してくれたんだね」
「ああ」
「助かったよ。あいつがいると、山に入って薬草を採れないから。大江山には、ユキノシタっていう、いい薬草がたくさん生えてるの。昔はよく摘みに行ってたのに、あいつのせいで行けなかったから。倒してくれて、ありがとう」
「いや……」
「とにかく、肩を貸すから、どうにかして歩いて山を下ろう」
ほら、と手を差し出してきた女の顔を見上げると、わしの顔を見た女はまた目を張ったが、すぐに元の表情に戻った。
差し出された手を握り、軋む体に鞭を打って立ち上がる。女に肩を回して、少し体重をかけて足を踏み出す。ずきずきと足のあちこちが痛んだが、耐え切れないほど痛いというわけではなく、どうにか歩くことも出来る。
このままなら、ゆっくりだが、日が暮れる前にはどうにか山を下れるかもしれない。
ようやく、ほっと安堵した。
だがそれと同時に、最強の陰陽師が、これでは情けないとも思った。