Phantasiestucke

□7.Traumes-Wirren 夢のもつれ
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Traumes-Wirren       804年 


「俺が一番多く花を贈った相手は…」
勿体ぶって、ロイエンタールはそこでいったん区切った。
グラスの水滴が静か伝うのを見つめ口元を歪める。
「…卿の奥方だ」
当の奥方の夫は瞬きを繰り返した。
「そんなことあるわけが…」
ないだろう、とミッターマイヤーはいいかけて口をつぐんだ。
そうかもしれない。漠然と感じたものが確信に変わるのに時間はあまりかからなかった。
彼が付き合う女性は半年と保った例しがないことを嫌でも思い出す。
名前を覚えるのも一苦労だった。髪の色、瞳の色に至っては組み合わせが確率統計の問題のように複雑だったことまで思い出し、苦めの笑いがミッターマイヤーの唇の端からも漏れた。
「…そうかも知れないな」
納得して頷き、ミッターマイヤーは空になっているグラスにワインを注ぎ足した。
テーブル上のシェブールチーズに辛口の白ワインはロイエンタールの好みを熟知しているエヴァンゼリンが常に切らさないよう心がけている。
バイエルラインなどをもてなす時とは違って、家庭的すぎないよう気を遣ったものが多い。素っ気なさを装った、心尽くしの料理が並ぶ。
極力エヴァンゼリンは姿を見せないため、ミッターマイヤーがサーブするのも特徴だ。
彼からは何につけ、花が届いた。
訪問の挨拶、食事の礼、非礼の詫び、誕生日祝い、風邪をひいたと一言でも言えば見舞いの花が、続いて快復祝いの花が絶妙のタイミングで贈られる。
趣味のよい花束は、エヴァンゼリンのすみれ色の瞳を見はらせ、喜ばせた。
季節を先取りしたもの、その最後を惜しむ名残のもの、エヴァンゼリンの好む花々…。
「…卿ほど花屋と縁のある男はそうそういないだろうな」
感嘆しミッターマイヤーは呟いた。造園技師の息子をしてかなわないと思わしめる花束の数々を思い出している僚友に、水を差す言葉が投げかけられる。
「…だがな、俺は花屋に足を踏み入れたことがない」
「なに?」
ミッターマイヤーは眉を上げた。怪訝な顔を親友に向け、話の続きを目で促す。
声をたてないでロイエンタールは笑った。ただ普段の冷笑はなりを潜め、穏やかな笑みが浮かんでいる。
「大抵はレッケンドルフに任せていた」
忠実な牧羊犬めいた印象を受ける副官の名がでて、ミッターマイヤーはますます怪訝な顔をした。
「副官に買いに行かせていたのか?全部?」
問い詰める声に薄く笑い返し、なかなかベルゲングリューンも趣味がよくてな…と絶大の信頼を寄せる幕僚の名をあげる。
「…聞かなかったことにしたいなぁ」
ロイエンタールからの花束を喜ぶエヴァンゼリンに聞かせたくないような気がした。
「花には罪はなかろう」
しゃあしゃあと言ってのけ、ロイエンタールはグラスをあける。すかさずワインボトルに手を伸ばすミッターマイヤーの眉間に皺は寄ったままだ。
「卿以外の男から贈られる花など、奥方にとっては何の意味もあるまい」
ただの装飾品にすぎないだろう、と言う顔にはやや人の悪い…というよりも罰の悪さが勝った表情がみえた。
ロイエンタールにいわれるまでもない。事実を知ったところで、まぁ、そうだったのですか?とエヴァンゼリンは苦笑するだけだろう。
花には全く罪はない。
花を贈る人間が変わったところで薔薇や百合の価値が下がるわけではない。
そんなミッターマイヤーの考えを見透かすような金銀妖瞳の視線を軽く腹をたてる。
「…大変だな。卿の部下は。勤務外の仕事まで請け負わねばならないのか」
憎まれ口を叩いたものの、途中で勢いを失った。
あの忠実な副官のことだ。どうせ嬉々として請け負ったのだろう。
自分なりに花の名や季節などこつこつと勉強したのは想像に難くない。
組み合わせや花言葉に至るまで配慮を重ね、押しつけがましくないよう気をつけて上司に説明したに違いない。
ベルゲングリューンだって同じだ。上官の為に心を砕き続けていたはずだ。花だけではない。
上官の素行や人間関係…職務外でも苦労の絶えなかった幕僚の緑の瞳はそれでもいたわるようにロイエンタールを見守り続けていた。
「…卿は部下に恵まれている」
「ああ、それは否定しない」
即座に返答する言葉は、滅多に聞けないほど素直に響いた。
驚いたミッターマイヤーにやや照れた顔をロイエンタールは向けた。
「俺はろくでもない人間だったが…」
過去形の物言いが、ミッターマイヤーの心に痛みを引き起こす。
「唯一無二の友人に恵まれたしな」
低く発せられた言葉は、元帥杖よりも勲章よりも尊いものだった。
「…おだててもこれ以上いいワインうちにはないぞ」
と苦笑いと共に受け流そうとするのにうまくいかない。
言葉は嬉しいのだが、率直に受け取ることができない違和感があった。
「…おだてでこんな事言うかものか」
酒の強さにも定評のあるロイエンタールは少しも酔いを感じさせない口調で続ける。
「…最後まで卿の友人でよかった」
言われたほうは、喜んでいいのか悲しんでいいのか判らない。
ただはっきりとミッターマイヤーが断言できるのは「よかった」と言われることではない。
だが訂正しようにも言葉が続かなかった。
誤魔化しようのない事実は、「いて欲しかった」というミッターマイヤーの後悔の繰り言にたどり着く。
肩を叩かれ、黒と青の瞳が真摯にミッターマイヤーに向けられた。
「…ロイエンタール?」
暗転する視界の中で輪郭がぼやけていくのに、異なる瞳の色だけがくっきりと判る。
何の後悔もない笑みを含んだ金銀妖瞳が、静かにミッターマイヤーに語りかける。
「…それだけだ。ミッターマイヤー」
声の余韻と微笑の気配を残して、姿がかき消えてゆく。暗闇に取り残されたミッターマイヤーは呆然としながらも、親友の名を無我夢中で叫んだ。
「ロイエンタール!!」
その自分の声で目が覚めた。
視界は目覚めた方がぼんやりとしている。
耳の奥まで冷たく濡れ、喉の奥まで塩辛い。
額に手をやると嫌な汗までかいていた。目を手覆い、大きく息を吐く。
判っていた。
はじめから、夢だと判っていた。
逃れられない現実と忘れ得ない過去とがもつれた夢だと判っていた。
夢さえ見るのが苦しいからなるべく避けていたのに、律儀に最後まで見てしまった。
慰めにもならない夢など見たくもなかった。現実だけで充分だった。
シュラー、バルトハウザーは戦死した。
ベルゲングリューンは自殺した。
レッケンドルフは退役し、行方が知れない。
こんな世の中でも人一人行方知れずになることなど、案外簡単なことなのかもしれない、と思えるほど鮮やかな失踪だった。
失われた名誉は回復しても、喪った者たちは還ってこない。
遺されたのはフェリックスだけだ。
面影を色濃く留めるフェリックスしか、遺っていない。
がばりと身を起こし、ミッターマイヤーは辺りを見回した。
確か、フェリックスに昼寝をさせようと一緒に横になっていたはずだ。
隣に寝かしつけていたはずのフェリックスの姿がない。
軽い恐慌が起こりかけたときに、エヴァンゼリンの声がした。
「お目覚めになりましたの?」
のんびりとした風を装っているが、夫の声を聞いて駆けつけたのは疑いもない。
「ああ、いつの間にか眠り込んでいたみたいだな」
明るい声音を取り繕って返事をする。夫婦共々演技力のレベルは上がっていた。
薄暗い室内が幸いだった。エヴァンゼリンがこちらに来るまでに、なんとか体裁を整えることができそうだ。
「…フェリックスじゃなくて、あなたがおよりになってらっしゃるのだもの」
エヴァンゼリンもこちらに視線を向けず、落ちている玩具を拾い上げてはおもちゃ箱に戻して時間を作ってくれている。
くすくす笑う声音は少女の頃と少しも変わらない。
「フェリックスは?」
「お父さまを寝かしつけてくれた後は機嫌よく遊んでいます」
ハインリヒが相手をしてくれています、とエヴァンゼリンが言うまでもなく、二人楽しそうなの笑い声がもれ聞こえてきた。
「自分の毛布をかけて、子守歌を歌ってましたよ」
エヴァンゼリンの言う通り、小さなフェリックスのお昼寝用の毛布がかけられている。
「あなた…?」
黙り込む夫をさすがに不審に思ったのかエヴァンゼリンが寝台の側まで寄った。
毛布を手にして夫の顔を覗き込む。
弱々しくミッターマイヤーは妻に微笑みかけた。
「…ロイエンタールが一番多く花を贈った女はエヴァンゼリンらしいよ」
訥々とミッターマイヤーは言い、夢を反芻した。
奥方、と彼が発音する言葉は馬鹿にしたようにも響いたが、畏敬がこもっていたように今更ながら思い知らされる。
「まぁ…わたしですか?」
意外そうに驚いた顔も五秒も経たないうちに、納得の表情に変わった。
「そうでしょうねぇ…」
ふうわりとした微笑みで応じ、エヴァンゼリンは毛布をたたむ手を止めた。
送る相手がころころ変わったのは簡単に想像がついた。
「いつも花瓶にぴったりの量で、いつも違うお花…」
歌うようにエヴァンゼリンは言う。
ほんの少し思い出すだけでいいのに、どれから引き出してよいか判らないほど記憶は膨大だった。
ただ、いつも花は趣向を凝らしていたがそのまま花瓶に活けれるよう配慮してくれていた。
手を煩わさないで済む心遣いは、子供が手折った花を差し出す花に似ていた。
ぶっきらぼうさも、照れ臭さも含めてよく似ていた。「…ご存知でした?」
エヴァンゼリンは声を潜めて夫の寝乱れた髪を手で梳いた。
「あんなにたくさんお花を下さったのに、黄色の薔薇だけは入っていなかったんですよ」
語尾をあげ、エヴァンゼリンはゆっくり微笑んだ。
「………そうなのか?」
一瞬呼吸がとまり、問い返す声が上ずる。
「ええ、一度も」
優しく言い添えられる声にミッターマイヤーは言葉を失った。
しばらくしてじんわりと頬の辺りから笑みくずれてゆく。泣くに泣けない感情は笑いだすしか捌け口がないというような、複雑な笑みだった。
「………あいつらしいな」
ようやくミッターマイヤーが口を開いた時に、ぱたぱたと小さな足音がして、ドアに勢い良くぶつかる音が続いた。それきり静まり返ってしまう。
「フェリックス!」
父親の声がしてから、弱々しい泣き声があがった。
その時にはミッターマイヤーはベッドを飛び降りている。
慌てて戸を開けるとすでに手を伸ばして愛息は抱っこされるのを待っていた。
吹き出しそうになるのを堪え、ミッターマイヤーは優しく抱き上げる。
「…フェリックス」
少し赤くなったフェリックスの額を何度か撫でてやると、簡単に泣き声はおさまった。
「………現金な奴だな」
後ろでエヴァンゼリンが口元を押さえて笑っている。
フェリックスは打たれ強いくせに父親にはとことん甘える所があった。
似ているのだ。実父に、どこからどこまで、フェリックスは似ていた。
「ファーティ」
きゅっと、父親に抱きついて笑う様子は夢の最後に残った親友の笑みと酷似している。
「…いい子だな。フェリックス」
抱きしめる腕に力がこもった。
フェリックスしか遺されていないわけではない。
そう初めて思えた。
何事も無かったかのように繰り返される日々は、注意深くやり過ごしてきた時間の積み重ねだ。
周りの優しい気遣いにスポイルされ、自身も過去を思い出さないよう過ぎていた日々。
それと、正面から向き合える日が来たようにミッターマイヤーは思っていた。
もつれた夢が解ける日がくるのも、そう遠くはない。

ENDE

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