novelletten 2

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ただひとりの      798年10月

もうあと10分もすれば、副官が迎えに来る。
いつの頃か、出立の前にコーヒーを飲むのが習慣になっていた。
アウグスト・ザムエル・ワーレンには、亡妻との間に五歳になる男の子がいる。
軍人という職業柄、家を空けることも多いため、息子は実家に預けられていた。
髪の色も瞳の色も父親譲りで、体格もいい。
なかなか腕白で、腕や脛に常に傷をこしらえていて、養育しているワーレンの両親は、事あるごとにデジャヴュを禁じえなかった。
「まぁ、あなたの子供時分より聞き分けがいいから、楽だけれどねぇ」
母の繰言には必ず続きがあって、 
「アウレーリエのおかげね。あなたの頑固さが半減していてよ」
と結ばれる。
軍人の妻になることに反対され、身一つ同然で家を飛び出てきた妻だったことを、ワーレンの母はすっかり忘れているようだった。
苦笑するほかないワーレンは曖昧に頷くだけだ。
四年前、ワーレンは息子の誕生と一緒に妻の死を伝えられた。
思いもよらない難産だった。そのさなか、妻は子供の命を選択した。
勤務中のことで、母からの連絡にも出れず、帰宅したのは葬儀の真っ只中のことだった。
男の子だったらユリウス・バルタザール。女の子だったらユーリア・エステル。
あの日も、妻はコーヒーを入れてくれながら何度も確認した。
臨月なのに空港まで見送りにゆき、いつまでも手を振っていた姿。
あれが最後だった。あれが最後だとわかっていたら…決して妻を一人きりにはしなかったのに…。
何度も繰り返す苦い後悔と共にコーヒーを飲み終え、ワーレンはシンクにカップを置いた。
表に車が止まる音がした。身支度を整えたときには副官と従卒がトランクなどを運び出したあとだった。
「じゃあ、行ってくる」
「…気をつけるんだよ…」。
いつになっても慣れることのできない見送り。母は表には出ずに玄関ホールで見送る。
ワーレンは息子を抱き上げ、表に出ると目線を同じ高さにする。しっかりと息子の顔を目に焼きつけるように見つめる。
「おじいちゃんとおばあちゃんの言われることをちゃんと聞くんだぞ」
「うん、わかってるよ」
ただひとりの息子は力強く頷いた。
ユリウスは天使のような笑顔でつづけた。
「おじちゃん、また来てね!」
虚を衝かれたワーレンの腕からするりと飛び降りると、ユリウスは元気よくドアを開けた。
閉じていく扉の向こうでは、居間に駆け戻る息子の気配が感じられた。
ほろ苦いものがワーレンの胸にあふれる。
半年もその上も家を空けていて、父親だといわれても、子供にはわからないものなのだろう。
祖父と祖母に過不足ない愛情をもって育ててもらっているからこそだと、思いつつも。
そこはかとない悲しさがじわじわと広がっていく。ワーレンは呆然と佇んでいた。
「…?司令官?どうかされましたか?」
いつまでたっても乗車しない上官のただならぬ様子に副官は不審そうに尋ねた。
われに返ったワーレンの視界が少し歪んだ。
車に乗り込みワーレンは呟いた。
「…息子に父親だと認識されんうちには死にたくないもんだな…」
怪訝そうな顔をしたハウフ副官に、ワーレンは早く車を出せといわんばかりに手を振った。
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