die Hundert Gedichte

□5・声きくときぞ
1ページ/1ページ

5・声きくときぞ 800年2月



「………叱られなかったんでしょう?」
ベルツの語尾に堪えきれない苦笑が混じる。
アイゼナッハ提督の従卒を務める一年後輩のゲルンハウゼンが深刻な声音と表情で、
「今、お時間よろしいですか?」
と言ってきた時にはかなり身構えてしまったが、話を聞いているうちに頬がゆるんでしまった。
とはいえ、ゲルンハウゼンの方は真剣、深刻そのものだからベルツは急遽、真面目ぶった顔を作り直しにかかる。
「…なら、君が気に病む必要はないじゃない」
他人事に聞こえないように注意しつつ、なおかつ押しつけがましくならないように気をつけた。
「だって、もう済んだことなんでしょう?」
後輩の深刻な懺悔の内容は傍から見たら他愛もないものかもしれない。
だが、従卒の身分からみたら死活問題に発展しかねない事柄だ。
それはベルツ自身にも思いあたる節があるから、下手な事は言えなかった。
ここは相手の言葉のうちに潜むものを注意して感じとらねばならない。
「…叱られた方がよかったです」
憮然として軽く唇を噛む様子は自分に対しての怒りだ。
「自分がここまで馬鹿だとは思ってもみませんでした」
怒りが萎むと情けなさしか残らない。
「よく考えたら判りそうなものだったのに…」
言葉も途中で詰まってしまう。
ゲルンハウゼンがグリース少佐から指示されたのは極めて単純な事柄だった。
艦橋でアイゼナッハ提督が1回指を鳴らされたらコーヒーを。2回指を鳴らされたらウィスキーを4分以内に持参すること。
たったそれだけのことだった。
それなのに、なにを思ったか、ウィスキーを持っていかねばならない所を、ゲルンハウゼンは2杯のコーヒーをトレイに載せてアイゼナッハに差し出した。
極度の緊張をしていたということを差し引いても、あり得ない行動だ。
しかも、提督から注意や叱責を被らなかったものだから、幾度となく平然と2杯のコーヒーを出し続けたというのだ。
「…ところで。いつそれが間違いだと判ったの?」
注意深くベルツは訊ねた。ゲルンハウゼンは頬を紅潮させ俯く。
「………グリース少佐が気がつかれるまで…」
声は小さく消え入りそうだった。最後の文節は空気に溶けそうになる。
「………約2ヶ月」
「2ヶ月も?!」
思わず頓狂な声をあげ、ベルツが噴き出したのは、その2ヶ月間ウィスキーの代わりに2杯のコーヒーを飲み続けたアイゼナッハ提督を想像したからだ。
もう気がつくだろう、今度は大丈夫だろう、と期待しながら指を鳴らされたに違いない。
無言で落胆し、それでもまた挑戦し続けた沈黙提督の姿を思い浮かべると、込み上げてくるのは笑いの衝動だけだ。
なんとかそれを抑えこみ、視線を戻す。力なくうなだれたゲルンハウゼンが肩を震わせる姿が視界に入った。
「………ベルツ先輩。僕、学校に戻されますか?」
不安げな顔は涙目になっている。
「大丈夫だよ。だって新領土まで来たんだし。ここまで来て誰も帰れとは仰らないよ」
真心込めて言ったのだが、先程盛大に噴き出した為か、まったく相手の心に響かなかったらしい。
眉は更に下がり、涙目が先ほどよりも潤沢にうるんでいる。
これにはベルツも焦った。ここで泣かせたら自分の所為でしかないように思えてきた。
「強制送還なら一度目でそうなっていたはずだよ」
気持ちはかなり焦っていたが、ゆっくりと言う。
いつか自分がそうしてもらって心が落ち着いた時のように、ベルツは慎重に言葉を繋げた。
「君が務まらないなら、誰にも務まらないよ。だって、君ならアイゼナッハ提督の従卒を務められる、って先生方も確信しているんだよ?」
本心からの言葉はよどむことはない。
沈黙提督の従卒を選出する折、成績が優秀なことはもとより、感受性が豊かで勘がいい生徒であることがまず考慮されたはずだ。
…じゃんけんで負けて送り出された自分とは次元が違う。
「…自信をもって、ゲルンハウゼン。ほら、胸を張って」
肩と背中を軽く叩き、優しく言う。
もしかしたらグリース少佐は早くから気がついていたのに、長い遠征中、提督の酒量を気にされて従卒の間違いに乗じたのかもしれないな、とベルツは頭の片隅で思った。
「…君だけの所為じゃないと思うよ。それに済んだことをいつまでもくよくよしても仕方ないよ?」
後悔なんて、するだけエネルギーの無駄な浪費だよ、とやや声音を厳しくして言い添える。
「…そう…ですか?」
「そうだよ」
「…本当にそうですか?」
「そうだって!」
「…そ、そうですよね?」
ゲルンハウゼンは半ば自分に言い聞かせるようにいい、目を閉じた。1度大きく深呼吸し、ゆっくりと目を開ける。
「…もう2度と同じような失敗はしません」
決然と言いきった時には数十秒前とは別人のようだった。
「…先輩に話したら楽になりました」
不安で不安でたまらなかったんです、と言葉に反してきっぱりと言う。
慰められて楽になったのではない。しっかりと自己を見つめ直せたから迎える事のできた境地だ。ベルツは微笑んでまた2度ほど後輩の肩を叩く。
「…アイゼナッハ提督のお声。なんでもいいから僕も1度は聞いてみたいな」
前任の先輩は1度も聞いたことがなかったそうだよ、と言うベルツにゲルンハウゼンは丸くした目を向ける。
「…本当ですか?」
聞き返し、ベルツが頷くのを見てそのまま視線を下げた。落ち着いた思慮深い表情が戻りつつある。顔色も心なしかよくなったように見受けられた。
「…アイゼナッハ提督のお声を聞いたら、先輩に真っ先に、一言一句余さずにお伝えします」
ゲルンハウゼンは諧謔に言い、明るく笑った。
「…いつになるか判らないお約束になりますけど。…今日のお礼に」
その顔を見てベルツもこっそりと安堵の息を洩らした。
人を頼ることはあっても、頼られるのは初めてのことだったから。
首尾よく、とまではいかなかったにしろ、最低限の役にたつことができたみたいだ。
軽快な敬礼を残し、歩調まで変わって元気に戻ってゆくゲルンハウゼンを見送りながら、ベルツはもう一度肺が空になるほど大きな息を吐いた。
その背中を勢いよく押されて、ベルツは前につんのめる。派手に転けなかっただけよしとしなければいけない。
「………済んだ?」
加害者の声など聞かなくても判っている。
「驚かさないでください!中佐!!」
こんな子供じみたことをするのは、ファーレンハイト上級大将の副官以外考えられない。
「…もう会議はお済みですか?」
硬質な声で言うが、ザンデルスは気にもしていない。勿論ベルツも本気で腹をたてているわけでもなかった。
「ああ、終わった。そっちは?解決した?」
「解決?」
首を傾げて聞き返す。
「従卒がなにか悩んでいるようだから、話を聞いてやって欲しいって、グリース少佐から話を受けてね…」
ベルツは勿忘草色の瞳を見開いた。
「それでカイを連れてきたわけなんだけど…」
そういえば従卒を連れてきていたのは閣下とアイゼナッハ提督だけだと今にしてベルツは気がつく。
…半端ない心遣いだ。アフターケアも万全じゃないか。
「………絶対、わざとだ」
2杯のコーヒーは長い遠征中、上官の体調を心配されての、グリース少佐の未必の故意だ。
堪えなくていい笑いだったから、言い終えないうちに笑い声が弾けた。
もう止めようにも止まらない。
「…カイ???」
不審さを隠しきれないザンデルスの困惑した呼び掛けにも応じず、ベルツは心ゆくまで笑い転げた。
笑いすぎて咳き込んでしまい、副官に背をさすってもらっても、まだ止まりそうにはなかった。


5・奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき
 

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ