die Hundert Gedichte

□8・人はいふなり
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8・人はいふなり 789年


口論というほどのものでもなかったのだが、相手はそうは思わなかっただろう。
やんわりと相手の間違いを訂正した途端、罵声を浴びたものだから、少しばかりヒルダもむきになってしまった。
二、三言葉を交わす間に、みるみるうちに相手の顔は紅潮し憤激をそのまま表したような形相になる。
そんな様子を見て、怯むでもなく冷ややかに観察しているのは我ながら可愛げがないな、とヒルダは密かに思った。
とはいえ冷静に分析できたところでこの状況が改善される訳でもない。急遽対策を講じる必要に迫られてもいた。
自分の半分の年齢にも満たない生意気な小娘にずたぼろにされたプライドは、相手を攻撃して解決するものらしい。
肥大した自尊心ほど救いようがない。かと言って表面上の謝罪をするのも癪にさわる。忍耐力を使い果たし、ヒルダが反撃に転じようとした時だ。
聞くに耐えない喚きを制したのは別方向から飛んだ鋭い叱責だった。
「おだまり!」
シンプル極まりない言葉のその迫力に思わずヒルダも息をのむ。
「謝罪できないのなら口をお閉じなさい。もう勝負はついていてよ」
たたんだ扇をつきつけて、言い放つうら若い女性にはヒルダにも見覚えがあった。
ヴェストパーレ男爵家の女当主マグダレーナを知らない貴族など帝都オーディンにはいないだろう。
芸術擁護のパトローネとしては勿論、その男勝りな気性が招く武勇伝はつとに有名だ。
「素直に負けを認めてあっちへおゆき!」
有無を言わさぬ語気にすっかり青年は毒牙を抜かれてしまった。
伯爵令嬢に言い負かされたうえ、男爵夫人に追い詰められ、青年貴族はほうほうの体で逃げ出した。
その背に容赦ない眼差しを男爵夫人がなげつける。
「一昨日いらっしゃい!」
場数を踏んだ鮮やかな啖呵の切り方にヒルダは舌を巻くばかりだ。
もう少し気後れしていなければ拍手喝采していたかもしれない。
振り返った男爵夫人は、やわらかな視線を生意気で聡明で勇敢な令嬢に向けた。
「…面白いお嬢ちゃんね」
そういったっきり、扇で口元をかくそうともしないで笑いだした。
その貴婦人らしからぬ振る舞いに、少年めいた少女は呆気にとられ肩をすくめた。人のことはいえない。それも伯爵令嬢らしからぬ所作だった。
結局手にした扇は広げられる事はなかった。
馬鹿にしているわけではないと判る笑い方だったから、腹をたてるわけにはいかない。
陶器のような象牙色の肌に艶やかな黒髪の年若い男爵夫人は心底可笑しそうに笑っている。
「いい気味だこと。あいつみたいな輩、わたくし大っ嫌い」
素直に感情を乗せた声にヒルダも随分心安い気分になった。
「…いつから御覧になっていらしたんですか?」
「事の発端から」
短い言葉にまた笑みが含まれる。
「間違いを正してあげるのはよいことだし、あなたのおっしゃったことの方が真実だから、様子を見ていたの」
口には出さないが、令嬢の身に危険が迫ったらすぐにも助けだすつもりでいてくれたに違いない。
臨戦態勢でなければ、あんなにタイミングよく割って入れるものではないだろう。
「…限られた自分の知識を信じるよりも、専門家の知識を活用すべきだって所は特に、ね」
青年を一番激昂させたフレーズを繰り返され、ヒルダは首をすくめる。
どこでそんなことを教わったの?と男爵夫人は少し意地悪な口調でいいながら、少女の聡明な双眸を見つめた。
信じるに値する人間を見抜くのは至難の技だ。それを見越しての令嬢の言葉であれば、末恐ろしい娘と邂逅したと言える。
「…すべてが完璧な人間なんて、絶対にいませんから」
ヒルダはそう付け足して遅まきながら慎ましく口を閉じた。
「…そうね。完璧なんてものはワインやタフィに存在しても。人間にそうそういるものじゃないわねぇ」
少女の言葉を反芻しながら、男爵夫人はよくよく観察する。
令嬢は男装しているものの、所々にフェミニンな要素を残している。倒錯している、というわけではないのだろう。
容貌は美少女というよりは美少年めいていた。
この少女の対になるような相手はそうそういないだろう。ただ直ぐに脳裏に浮かんだ人物がいるにはいた。
…生意気で底知れない知性と野心を備えた金髪の孺子。豊富な人脈と確かな記憶の中からたった一人しか思いつかなかった。
一向に返事が返ってこないのを訝しみ、男爵夫人は首を傾げた。
「…おや?どうしたの?さっきまでの威勢のよさは」
からかうように言う。そういう時の声でさえ、実のあるものに響いた。
ヒルダはほんの少し困った顔を男爵夫人にむけた。
「いえ。父の耳に入るのも時間の問題だな、って。…今更ですけど思ったものですから」
受け答えははっきりとしていて容姿そのものより少年っぽい印象を受けた。
怖いもの知らずにみえて、ちゃんと敬い畏れるものを持っていることも、男爵夫人の気に入った。
「お父様は今日はここにいらして?」
言いながら近くの肘掛椅子に座り、隣に座るよう身振りで命じる。
ヒルダも素直に従った。この貴婦人に逆らう力量がまだ彼女には備わっていないことをちゃんとわきまえている。
「いいえ。わたしが父の名代で参っておりますから」
「ああ、それなら大丈夫よ。あれが自分から吹聴して回らないかぎり、お父様のお耳に入ることはないわ」
安心なさい、ああいう輩は自分の不利益になることはなかった事にしてしまうもだから、と実のある声で理路整然といい、手を伸ばした。
「…残念ね。あなたが男の子じゃなくて」
短いくすんだ金髪を撫でつけながら男爵夫人はいう。本当にがっかりしたという風に聞こえる口調にヒルダは苦笑した。
これまでに何度も耳にした言葉だ。ただ、今まで反論をしたことがなかったが、ついつい本音が苦笑の形をとって表れ、それだけに留まらない。
「…いいえ、男爵夫人。わたしは女の子でよかったと思っています」
「あら、どうして?」
予期せぬ答えに男爵夫人はすっとんきょうな声をあげる。
ヒルダは一瞬口籠もった。相手を言い包めたり、論破する事には慣れていたが、相手に理解してもらうことがそれよりもずっと難しいと初めて知る。
それが言葉をつまらせる苦しさになるということも。
「あら、秘密?」
たたみかける口調に、気を抜く暇がない。くっきりと口紅をひいた唇からは好奇心と探求心を満たしたい質問が溢れんばかりだ。
ヒルダは意を決して口を開いた。
「…だって、父には娘でありながら、息子のようなものでもありますから」
男爵夫人の眉が寄ったのは失望からではなかった。
とんでもない少女をみつけてしまった。今となってはあのへなちょこ野郎に感謝したいぐらいだ。
「………残念だわ」
ため息混じりの声に芝居がかった落胆が混じる。
「もっと早くそういう切り返し方を知っていたら、わたくしの越し方も随分楽だったのに」
寄せた眉を元に戻して破顔し、扇を顎に当てる。しかしその直後、また思案顔に戻った。
とてもじゃないが、この少女は男爵夫人の想像範囲を越えた思考を備えている。
「………そうね。女でないと勤まらない仕事だってあるわね…」
いくら頑張っても、男ではできないことだってある。それにどんな世の中でも国でも、人口の半分は女だ。
「…歴史は男だけのものじゃないもの」
口にのせた言葉が触発したのか、少し意味深な笑みを男爵夫人は浮かべた。
「…歴史の始まりと終わりは美しい女から始まるものなのよ?ご存じ?」
判らないはずはないだろう。この少女の頭の中にはつまらないゴシップなどより有益な知識がつまっているはずだ。
「始まりの終わり…終わりの始まりは、必ず」
男爵夫人の言葉は、皇帝陛下のうら若い寵妃を匂わせた。
伯爵令嬢は慌ただしく周囲に視線を走らせる。あたり誰もいないのを確認して緊張を解いた。
「…お声が大きいです。男爵夫人」
たしなめはしたものの、非難の色のない声音以上に面白がる様子は、これまた男爵夫人の想像を超えた反応だった。
「あら、失礼」
形ばかりの恐縮を見せて、男爵夫人は改めて年若い伯爵令嬢をみつめた。
終わりの始まりがあのたおやかな伯爵夫人であるならば、この少女は始まりの始まりであるかもしれない。不意に何かインスピレーションを感じた。
「…わたくしのところに是非遊びにいらしてね?もっとあなたとゆっくりお話したいわ」
…わたくし、いっぱしの審美眼や人を見る目は持ち合わせていてよ?と優しく言われて悪い気がするはずもない。面映ゆさを覚え、ヒルダははにかんだ。
「喜んで。男爵夫人」
「マグダで結構よ。ええと…?」
名乗りもまだだと今更のように気がつきヒルダは椅子から立ち上がった。深々と男の子のような礼をする。
「ヒルダとお呼び下さいませ。マグダさま」
打つまえに響く反応にヴェストパーレ男爵夫人はにっこりと笑った。
手を差し伸べると恭しくヒルダは手を取り甲に軽く接吻した。お作法も受け答えも完璧に近い。
「そうだ。ヒルダ。1ついいことを教えてあげましょう」
ヒルダを傍に引き寄せ、ひそめた声で男爵夫人は囁いた。
「…猫の毛皮をおあつらえなさいな。そうしたら、お父様のご心配も減るかもしれなくてよ?」
男爵夫人の比喩の意図に気がつきヒルダは笑み崩れた。
これまでに何枚も何十枚もあつらえているとみえて、先程までとは違ったヴェストパーレ男爵夫人の微笑みには年季の入ったものを感じる。
「はい。すぐにでも仕立てます」
ヒルダは先人の教えを素直に受けた。つまらない諍いを避けることも肝要だと、身にしみていた。
「ただねぇ………」
扇を開いてせわしく仰ぎながら男爵夫人は気まずい表情を浮かべている。
「…わたくしの猫の毛皮、少しばかり欠陥品なの」
気弱な発言は寧ろ無責任に響く。ヒルダは唇を噛み息を止めた。
「…ついつい爪もたてちゃうし、噛みついちゃうし。ちょっかいもかけちゃうし」
ヒルダは左手で口を抑え、吹き出すのを堪えている。
「…まぁ、仕方ないわよね?猫には爪も牙もちゃんと備わっているのだもの」
このとどめの一言には我慢できず、ヒルダは声をあげて笑いだした。
猫にもいろいろな品種がいる。もっと言えばライオンや虎は猫科に分類される。…男爵夫人があつらえた毛皮は猛獣系が圧倒的に多いに違いない。
少年めいた少女の屈託のない明るい笑い声に、男爵夫人も澄ました表情を崩した。
多大な石くれの中から輝かしい宝石を見つけることができないのなら、下らないこんな集まりに顔を出す必要などない。
この日の男爵夫人の収穫は稀少な極上の宝玉だった。
猫がミルクを舐めたように満足気な笑みを、ゆっくりと男爵夫人は浮かべた。


ENDE

8・わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり
 

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