die Hundert Gedichte

□9・うつりにけりな
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9・うつりにけりな 795年5月


嫉妬を色にして表すなら、黒以外に考えられない。
絵の具の色だってどんどん足していけば、黒っぽい色になっていく。
瞋恚の炎というものは紅ではなくてどす黒く、まがまがしいものだと初めて知った。
奥方さまの碧い瞳の色が変わられたのは錯覚なんかじゃない。
瞳の色だけじゃない。お顔つきまで豹変された。
それはもう劇的な変化で、見てはいけないものを見てしまったという恐怖で、ぎゅうっと心臓を捕まれる気がした。
あからさまに視線を外せないので奥方さまの豪奢な首飾りに目を向ける。
陛下から下賜された大ぶりのオニキスの首飾り。
奥方さまが身に纏われるものはみんな陛下に繋がる物ばかり。
心を砕かれているのは皇帝陛下の一挙手一投足。
お風邪を召したと聞けばご心配のあまり、奥方さままで寝込まれることもしばしばあるぐらい。
公式な発表以外にも奥方さまは宮中に情報網を持っていらっしゃるから、知らなくてもよいことまで早々に耳に入ってくることになってしまう。
金銭で引き出される人の口から口を伝いおもしろおかしく脚色される噂話はもちろんのこと。
陛下のことをつぶさに知ろうとなされば、それは否応なく、お側にいらっしゃる方のことまでお耳に入ることになる。
…現在のご寵妃、グリューネワルト伯爵夫人。
9年前、15歳で後宮にあがられてから、ご寵愛を専らになさっているお方。
…奥方さまは「あの女」と憎々しげにおっしゃるのだけれども。
奥方さまがおっしゃるほどグリューネワルト伯爵夫人が悪いお人だとは、わたしには思えない。
奥方さまがおっしゃるように性悪で淫乱でよこしまなお方だったら…ご寵愛をよいことに奥方さまをこの新無憂宮(ノイエ・サンスーシ)に住まわすことなんて絶対になさらないはずだ。
ご寵愛を引き留めるために、確固たる地位を固めるために。それこそ周りを蹴落としたりなさるんじゃないかしら?と思わずにはいられない。
伯爵夫人のご出自は帝国騎士の位を持つお家…とはいえ没落していらした…奥方さまはもっと酷い表現をなさるけど…というのは周知の事実。
奥方さまのように子爵令嬢として華々しく宮中に上がられたわけではなくて、ご苦労も多かったとうかがっている。
…宮内省のお役人がまるで狩りでもするように、平民も貴族も関係なく、陛下の嗜好に合うような少女を連れ去ったと母から聞いたことがあるものだから、伯爵夫人のことを羨む気持ちなどさらさらなく。
望んで宮中に上がられた方ではなく、むしろ伯爵夫人は生贄だと思ってしまう為か、奥方さまのように悪しざまにはとてもじゃないけど思えないのだ。
酷い言い方をするならば、伯爵夫人がご寵愛を専らにされていらっしゃる間は、嫌々宮中に入れられる娘が出ないのだ。
それに伯爵夫人は万事控えめで官僚や館の使用人の評判もとてもよくいらっしゃる。
政治に口出ししない寵妃なんて稀にみる…もっと言えば前代未聞の存在なのだとか。
悪い評判を立てるのは、宮中のやんごとない身分の方々の妬みと嫉み。
自分の利害がからむと、人はどこまでも醜い感情を抱いたりするのだろう。
恨んだり、羨んだり、妬んだり、泣いたり、罵ったりする力があるなら、他にすることはいくらでもあるのを、残念ながら門閥貴族の方々はご存知ないのだ。
そうしていて事態が変わるなら、それでもいいだろうけど。
だいたい我儘な子どもが玩具を欲しがって売り場で駄々をこねても成功率は2割未満。
勿論、奥方さまのようなお生まれの方は我慢する事など知らないままお育ちになられたから、我儘という観念はお持ちでいらっしゃらない。
思ったことはすぐ口に出され、口に出されたことは即座に叶えられなければならないことなのだ。
奥方さまの金切り声で我にかえる。通信が終わったようだ。おそるおそる視線を戻すと奥方さまは怒りのあまり、青ざめた顔をしてらっしゃる。
お下げいたしましょうか、の一言さえでない。喉が、舌が強ばって声がでない。
恭しく一礼して踵をかえす。通信を終えたヴィジフォンのディスプレイを棚に置いてまた一礼し、早くこの場を、一秒でも早く逃げ出そうとした。
次の瞬間。
わたしの半年分のお給金よりも高価なティーセットが次々に宙を舞っていった。
砕け散る前の数秒の、取り返しのつかないどうしようもない時間。
薄く麗しい白磁のティーセットは壁や飾り棚に次々にぶつかり、見るも無惨に破壊されてゆく。
止めようのない破壊衝動を目の当たりにしてもわたしには為す術がない。
奥方さまはポットを両手に持たれてそのまま振り上げて床に叩きつける。
鈍い音をたててポットは割れ、残っていたお茶はわたしの10年分のお給金よりも高い絨毯に染みを広げていた。
自分で後始末をなさるはずもなく、この絨毯を何年もかけて織り続けた職人の苦労も知るわけもなく。
不意に沸き起こる腹立たしさを口を間一文字にして身体のなかに閉じ込める。
ポットの中にあってこそのお茶なのに。
カップの中の嵐だからこそ、誰もが見て見ぬふりをしているのに。
自分の感情を持て余すことは周囲に暴力となって表れるものだと、このお屋敷に来て2日もしないうちに知った。
破壊の女神と化した奥方さまはシルクのクッションを髪止めのピンで引き裂いた。あたりは羽毛が舞い散り、場違いなお祭り騒ぎのように見える。
結い上げた艶やかな黒髪はとっくに乱れていらっしゃる。
奥方さまはお茶道具を運んできた銀のトレイを窓に放り投げられた。あんなに重たい物を、いとも簡単に、とどめの一撃とばかりに。
窓ガラスは鋭い音と共に千々に砕け散る…予想に反しない結末だ。
我にかえられることなく、そのまま肩で息をされながら奥方さまは応接間を出ていかれた。
わたしはといえば、取り残されてほっとしたあまり、膝から力がぬけ、へたへたと座りこんでしまう。
本当に、今のは奥方さまだったのだろうか。
奥方さまは思い出話をなさるとき溶けそうに甘いお顔とお声で、時間が経つのを忘れるぐらい言葉を尽くされる。
陛下が、陛下に、陛下を、陛下は………。
奥方さまの唇から漏れる声は甘く優しいものだ。
それと同時に。
同じお口からグリューネワルト伯爵夫人を痛罵する言葉も生まれる。
聞くに耐えない、罵詈雑言。
刺々しい、憎々しげな声音はガラスに爪をたてる音にも似ていた。
…もしかしたら。奥方さまもそう言われてきたのかもしれない。
ご寵愛を一身に集められていたころ、奥方さまもそんな状況にいらしたのかもしれない。
だとしたら、この現状を生み出したのは、他ならぬ皇帝陛下ではないか。
皇帝陛下の移り気なご性質が招いた結果じゃないのだろうか?
勿論、口が裂けてもそんなこと申し上げられない。
その場でわたしは奥方さまに殺されかねないから。
階段から落ちて運悪く、打ち所が悪くて…と家には説明がいき、少し多めの見舞金がどうみても転落死したとは思えない遺体と共に届くのは…想像に難くない。
さっきから身震いが止まらないのは、何故だろう。
あんなトレイがまともに当たっていたら、ただでは済まなかったはずだ。
身体がそれを警告してくれているのかもしれなかった。
奥方様には、今、がない。
あるのはきらびやかな過去と、空中楼閣の未来。
奥方さまが、それでお幸せでいらっしゃるならまだいい。
憎しみを糧に、過去の栄光を形見に生きていらっしゃるなら。
でもそうじゃないから、わたしごときのしがない小娘からみてさえ、奥方さまが、お幸せでないから。
口幅ったい言い方になるのだけど、人を陥れてご自身が幸せになれると奥方さまが信じていらっしゃるのが、たまらなくなってくる。
幸せなんて、なりたいと思ってなれるものじゃないのに。
人の心なんて、思惑なんて、自分ではどうする事もできないものなのに。
このお邸では誰も、もう奥方さまにご意見を申し上げることはできなくなっている。
執事さまも侍女頭さまも。このままじゃ、執事さまがご自分より大事に思われているべーネミュンデ侯爵家も奥方さまもなくなってしまうかも知れないのに。
判らないのかしら?判りたくないのかしら?
それとも、もう諦めていらっしゃるのかしら?
諦めて、運命を共になさるおつもりなのかしら?
最近、よく思う。よく、というよりも頭から離れられないだけなのだけど。
もう奥方さまは、この世の人でないような気がする。
人を想い、恨んだあげく魂が離れていってしまわれたような気がしてならない。
わたしは奥方さまに聞こえないように注意して溜息を吐いて、破片を拾う。
掌にのせた砕けた破片は奥方さまのように思えてならない。
傷つけられたものは、周りをも傷つけようとする。
奥方さまの足音が完全に聞こえなくなって初めて声にだしてため息をついた。
向かい合う現実はこんな磁器の破片でないことはなんとなくだけれどもわたしも感じ始めている。
だけれども。
わたしは今ため息を吐くほか、何もできないでいた。


ENDE


9・花の色は うつりにけりな いたづらに わが身よにふる ながめせしまに 小野小町
 

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